スローモーションブギウギ

スローモーションブギウギ

第一部

ハローワークなんていうおどけた呼び名の職安には、これといった資格もなく、めでたくもない誕生日がきて三十六になった男を採用してくれる企業などそうあるわけがない。道路沿いの自動販売機で缶コーヒーを買い公園のベンチに座り、オレはこの日何度目かのため息をついた。大手ゼネコンの下請けのまた下請け、孫請けってやつか、のダム建設現場で、人間かクマか分からない連中との山奥での仕事に嫌気がさしていたころ会社が倒産。おまけに離婚とは。もっとも望んでした結婚ではなかったし、子供のために婚姻関係を続けていたようなものだったが……一人娘の千尋を思うと不憫でならない。

㈠超能力

「S相模原ってどこ?」みたいなド田舎の、六畳一間のボロアパート住まい。風呂とトイレがあるだけましだが自分の生活もままならないのに養育費、月十万円とは……。貯金も目減りするいっぽうだ。イザとなったら〞あれ〟に頼って、スロットマシーンでもやるか。なんでオレにあんな能力が備わったのだろう?

動体視力がいいのは子供のころから、でもそれは良いなんていうレベルをはるかに超えていた。野球なんてすると、ピッチャーの投げたボールがスローモーションで飛んでくるからいつもホームラン。それに付随して身体の動きもスピードが増し、信じれれない力を生むのだ。そういえば長島茂男もインタビューを受けたとき、時々そんなことがあったと、話していた。

宮本武蔵は飛んでるハエを箸で捕まえることができたと伝記で読んだが、オレの場合は生まれつきってやつだ。といっても、それが続くのは僅か十秒ほど、また使うには同じく十秒待たなければならない。

喧嘩しても相手の動きなど手にとるように分かる。そのうち「洋平君がいると面白くない」と、誰も遊んでくれなくなり、遊び相手はウサギのピーコと、犬のクロだけだ。

「ボクは普通の人間ではないのか?」子供ながらずいぶん悩んだものだが、成長するにつれそれをどうにかコントロールできるようになった。それは簡単なことだった。むきになって本気にならなければいいのだ。その挙句が小学生のくせに無気力人間になりかけ、その反動か中学時代は喧嘩ばかりしていた。高校時代はおとなしく、世の中が分かったような気がしてまるで透明人間。そんなオレを心配したジッ様が「お前自衛隊に入って鍛えてもらえ」の一言で、高校卒業と同時に陸上自衛隊に入隊した。

自衛隊でのオレは水を得た魚だ。射撃なんて集中すれば百発百中だし柔剣道、格闘技、なんでもござれ。でも、子供のころの苦い経験があったので〞スローモーションブギウギ〟(その能力を自分でつけた)を使うことはめったになかった。もし、あの事がなかったら自衛隊も辞めずに済んだしオリンピック出場も夢ではなかったはず、だった。

㈡どうしよう

東部方面隊対抗射撃大会で優勝し特別外泊を許可され優勝祝いでつい羽を伸ばし、一人で居酒屋に寄ったのが運のつき、運命の分かれ道ってやつだ。

「ここ空いてますか?」

店はがら空きで空席だらけ、わざわざオレの隣に座るとは、振り向いた。目のパッチリした女性、それも美人(その時はそう見えた)が立っている。

黄色いボデコンスーツから突き出た豊満な胸。肩のちょっと下あたりまである茶髪が揺れ、オレの煩悩が柳の枝に飛び付くカエルのごとく飛び出した。

ゴクン。力の入った生唾を飲み込む。

「あっ、空いてますよ。貴女を待っていたのです」

素面では言えない調子のよい言葉がニヤケタ口から勝手に出てくる。

「一杯おごってくださる?」

「いいですよー、お嬢さん」

映画のこんな場面でハリソン・フオードがチェック模様のベストを粋に着こなしたバーテンに、マティーニをさりげなく頼むのを思い出す。

「バーテンさん。こちらのレデーにマティーニ、差し上げて」きどった口調でさらっと言えた。

つるつる頭にねじり鉢巻した居酒屋のオヤジ、

「お客さん、かんべんしてくださいよ。うちにそんなシャレたの、あるわけがないでしょ」と。すかさず彼女「焼酎のお湯割りちょうだーい。濃い目にねー」

と、言い放った。

したたかに飲み何を話したかは定かでないが、とにかく意気投合し、ネオンきらめく繁華街を二人して闊歩。もう一軒スナックに寄ったまでは覚えていたが……。

誰かのイビキで目が覚めた。ここはどこだ? 自衛隊舎の二段ベッドの硬い感触ではない。二日酔いの前兆の頭は、まだ活動を控えてる。

「だ、誰だ! このオバサンは?」 悲鳴をあげそうになり慌てて両手で口を押さえた。あろうことか隣に見知らぬオバサンが、ガーグー寝てる。かろうじて臍から下にシーツが掛かっていた。

ガーで鼻の穴が大きくなりグーで萎むのを眺めていると思考が回復。枕元にあるウエーブのかかった茶髪のカツラと脱ぎ捨てられた黄色いボデコンスーツで、ようやく昨夜、居酒屋で知り合った女性と気付く。

《観察》その①

うーむ。よくこの肉体が小さめなボデコンスーツに収まっていたものだ。よほど強力な繊維で作られているに違いない。二段腹、いや全身が解放された喜びで『おれたち自由だ!』を表現していた。

《観察》その②

瞼からは熊手のような付けまつ毛が落ちかけ、口から垂れた涎が厚化粧を落とし、ホウレイ線がくっきりとした谷間を形成している。

《観察》その③

夢でも見てるのか「あらよっ」と声をだし巨大なお尻を突き出してオナラをしたときには〞地球外生命体“との遭遇だと思った。

こうしている場合てはない。オレは急いでその辺にちらばってる服をかき集め、そっと着替え、彼女を残したままホテルを後にした。

街はまだ薄暗く、ビルの谷間から太陽が、ヨボヨボと這い上がる、晴れそうな予感の日曜日の朝だった。

それからだ、彼女からのメールと電話が頻繁にかかってきたのは。

「会ってよ」のメールと電話。三回に一回は無視。携帯番号を変えても、どこで調べるのかまたもメールと電話が。やむなく「明日から演習で青森に行くんだ」「演習で沖縄に」と断っていたが、そのうち演習場も日本の地にはなくなった。

「私、妊娠したようなの」ええっ! そんなあ。

どうしよう。

二十一って確かに言ってたのに、オレより五つ年上でバツイチだったとは。彼女の親父というのは右翼の幹部。駐屯地に街宣車が来るようになった。

「山田洋平ー、出てこーい。国民を守るー、自衛隊員がー、女性を無理やりレイプ。そんなことがー、許されてーいいのかー」

違う。オレは逆ナンパされたんダー。

中隊長に呼ばれた。「お前なあ、自衛隊のためだ。依願退職しろ。こう毎日こられたんじゃたまらない。再就職先はなんとかするから」

泣く泣く営門から出ると、彼女と戦闘服姿の若者五六名を引き連れた彼女の親父が待っていた。

出来ちゃった婚とは聞こえがいいが、あれは略奪婚だ。だが、だがだ。妊娠とは真っ赤な嘘だった。それでも同じ屋根の下、三年後には妊娠。生まれた子は可愛い女の子。しかし彼女はマージャンにパチンコ、あげくはホストクラブに入りびたりで子育てなんて出来る女ではなかった。やむなく祖母に育ててもらったがその頼みの祖母も亡くなり、悲しみにくれる間もなく離婚。ダメな母親を気遣ってか、「お母ちゃんと暮らす」と言った娘の千尋。たまにオレのアパートに遊びにくるが、このところ元気がないのが気がかりだ。

㈢ミタのバッ様

日が丹沢の山並みに傾きはじめた相模原の空は、とぼけたようなピンク色。アパートの錆び付いた手摺に寄りかかり眺めていると、ブルーな気分に陥った。

子供のころは〞時間〟なんて考えもしなかったし大体観念がなかった。一日中遊んでぐっすり寝る。その繰り返しだったが、それが今じゃどうだ、寝付かれずもんもんとしているともう朝。毎夜布団に潜り込むたびに過ぎていく一日を考える。「オレでも出来る事があるはずだ。何かしなければ」と。考えれば考えるほど溜息が洩れてくる。こんな時は酒を呑みにいくに限る。サンダルを引っ掛け暗くなりかかった道を影を引き連れトボトボ歩く。どっかで犬の遠吠えが、オレも泣きたくなってきた。

道路の脇でひかえめに立ってる電柱が、犬でもションベンしたのか濡れている。オレも釣られて立ちションベン。ふと、貼られてる広告が目にとまる。

『あなたの街のニコニコ探偵社。どんな依頼も引き受けます。お気軽におこし下さい。秘密厳守』

ボケーと眺め「どんな依頼も引き受けます。か」

声に出したその時『ビーン』ひらめいた。これだ! 今のオレにできるのは。ころがるような勢いでアパートに引き返した。

近くのコンビニが開店したとき貰ったカレンダーの裏に、娘が遊びにきて忘れていったクレヨンで、思いついた名称〞便利屋・役立ち隊〟の広告をマンガチックに絵入りで書く。中学生のとき好きな子がいて入った美術部の腕、我ながら味のあるできばえだ。さっきの電柱に引き返し、ニコニコ探偵社の上に貼った。

これでよし。もう五、六枚書いて寝よう。

何かうるさい、電話か。しぶしぶ布団から手だけ出して、枕元に置いた受話器を掴む。

「もしもしー。なになにーヤクダチタイだとー。こんな朝っぱらから変な宗教の勧誘なんてするなー」切ろうとした…ヤクダチタイ…電柱=ションベン=広告=便利屋=役立ち隊。目が天になり一気に目覚める。

「はいはい。お電話代わりました。今のは入社したばかりの新人でして、大変失礼いたしました。はい、分かります、分かります。今時の若者は電話の応対もできない。おっしゃるとうりで、申し訳ありません。ワタクシ役立ち隊本舗社長の山田洋平です。では改めてご用件を伺いさせて下さい」言いながら布団の上に正座する。「なるほど、なるほど。朝の散歩で広告が目にとまった。子供が書いたようで可愛かったから……二三日前から猫が帰らない、それはそれはご心配ですねー。お任せ下さい。ネッシーから雪男、探し損ねた実績がありす。いえいえ、今のはほんのご愛嬌。親切丁寧格安料金の役立ち隊本舗です。ご安心下さい」

それじゃお願いするからね。で、電話を切ってしまって、肝心の名前と住所、聞くの忘れた。まあ、またかかってくるだろう。

イライラしながら一時間近く待ったが、一向にかかってこない。冷やかしかーと、朝飯を食いに玄関を出ると部屋の電話が鳴りだした。

「きたよ、きたよー」慌ててドアを開け、サンダルのまま部屋に入り受話器を耳に当てると「いつ来てくれるんだ。もう一時間以上たったじゃないか。来てくれるの来てくれないの、どっちなのさ」怒鳴り声がスキスキの腹に響いてきた。

「申し訳ありませーん。お客様のお名前と住所、まだ伺っておりませんので、はい~」「そんなこと調べなさいよ。逆探知とかレーダー探知機、いくらでもあるんじゃないかい」スパイ映画じゃあるまいし六畳一間にそんな物あるわけがない。が、これを逃したらいつ仕事が舞い込むか。「ごもっともです。それはプライバシーに関ることでして、お客様のキャット、ああ、キャロルさまですか、のですね、首輪に、そのような発信装置を取り付ける付けることも、当方のサービスの一環にありますので、よろしかったらご用意させていただきます。あ、必要ない。よかったです。いえいえ、いま手元になかったものですから、それでは改めて、ご住所は? はい、分かりました。役立ち隊本舗社長の山田洋平がお伺いしますので、よろしくお願いいたします」

今日はもういいよ。明日の午後にでも来てくれ、か。

最初の依頼がネコ探しとは。まあ贅沢はいっていられない。よし、宣伝効果が早くもあったぞ。残りも貼ってくるか、取り合えず朝飯だ。

暗くなって残りの広告に、自冶会推奨などと勝手に書きいれ、人目を気にしながら電柱や自治会の掲示板に無断で貼っっていった。いい歳したオッサンがと、惨めな気持ちになりかけ宣伝活動からアパートに帰ると娘の千尋が玄関前でしゃがみこみ待っていた。

「どうしたんだ千尋? こんなに遅く」ランドセルを背負い、お気に入りのキテイちゃんのぬいぐるみを抱いている。

「お母ちゃん、再婚するんだって。チーちゃん、邪魔みたい。お父ちゃんとこに行けって」

側に、遠足に行くとき買ってやった赤いリックが荷物でふくらんでいる。ふいに涙腺が緩み「千尋」っと呼び、悲しみを共有しようとした。

「お父ちゃん、落ち着いてよ。チーちゃんだって悩むよ。今まで泣いてたんだから。まったく親には苦労させられるよ」その言葉になぜか救われる思いがしたオレは、「あっ、痛」胸を押さえ、申し訳ない顔をする。こんなリアクションしてごまかすしかない、今の自分の情けなさ。

「まあ、廊下で話してないで中に入ろ。腹減ったろうラーメンでも食べるか?」

「うん」

部屋に入りオレはラーメンを作りはじめる。

「お父ちゃん、この前来た時より綺麗にしてるね」

無理に取り繕った大人じみた言い方に、またホロっとくる。

「これお母ちゃんがよこした」

ランドセルから封筒を取り出し、何か大切な物のように両手で持ち渡してきた。オレも「ははー」と両手で受け取り開いてみると、親権委託委任状だった。

これでもかーと、判子が押してある。

「……」

何か、何か言わなければ。

「千尋、お父ちゃんこれから頑張るからな! 明日、市役所の児童相談所に一緒に行こうな」

「分かった。チーちゃんも、ううんー、もう自分のことチーちゃんなんて言わないんだ。わたしも協力するね。調理なら任しといて。お父ちゃんは会社の帰り食材買ってきて。いままでもチー……わたし、してたんだから。美味しくて栄養のあるもの作るね」

そうか、あいつは料理も掃除もダメだったのは分かっていたが、小学六年生の千尋がやっていたとは……オレは中途半端な笑顔を作る。

次の日はてんてこ舞いの忙しさ。午前中は市役所。午後は小学校で転校手続きと、千尋をアパートに送り御手洗家に向ったのは午後の三時を回っていた。

橋本駅周辺の華やかな商店街を抜け、昔ながらの老舗がポツポツある通り沿いをしばらく歩くと、一人の老婆がテナント募集の張り紙がしてあるシャッターの前に座り、うつむいている。服装はピンクの上下のジャージに黄色いスニーカーという、およそ老人には似つかわしくない身なりだが、オレは、時々ひばり放送で呼びかける痴呆老人の徘徊だなと、ピンときた。

人通りの多い駅前から離れているものの、チラシ配りのお兄さん、犬を散歩しているオバサン、ぺチャクチャおしゃべりに夢中な女子高生たち。みんな気にも留めずに通り過ぎていく豊かな町の、どこにでもありそうな、駅前からちょっと離れた現実。

「お婆ちゃん、気分が悪いの? 大丈夫かい?」

声をかけると顔をあげ、いぶかしげにオレを見る。えーと誰だっけ? ほら、あれ。喉まで出掛かっているが……樹木希林だー、が、違う、似た人だ。

「ちょっと神経痛が出てしまってな。休んでいたところじゃワイ」意外にしっかりした声が返る。

「家どこなの? よかったら送ってあげるよ」言い終わらないうちに「おお、そうかい」と両手を差し出してくる。これはおぶってくれ、ということか。後ろ向きになり腰をかがめると「悪いね~、お兄さん」しゃきっと立っておぶさってきた。

身長一七八センチのオレの背中で「お、いい眺めだぞ。見慣れた景色も違って見えるワイ」と、ご満悦な様子で、そこを右、あそこを左と二十分ほど歩きいいかげん疲れてきたころ、どことなく日本的郷愁を感じさせる裏通りに出た。

「ここだよ」

「え、ここって」

瓦葺の塀で周りを囲った、昔ながらの由緒正しい頑固屋敷といった佇まいの家。門に御手洗と表札が。まさかこのバッ様が依頼人の御手洗様!

「これは御手洗様でいらっしゃいましたか。私、昨日電話を受けました役立ち隊本舗の山田洋平です。大変遅くなり申し訳ありません」背中のバッ様に言うと、

「おおそうかい。まあ、いいわさ。入っておくれ」

おぶったまま「立派なお屋敷で」とか言って門をくぐると、キンキラ魚が池にわんさか泳いでる。

「なーに、死んだ亭主の実家だったのさ。ワシは浅草生まれの江戸っ子よ。空気がいいっていうんで住んでるが、刺激がなくていけねえよ」

自動的に来客を告げるセンサーがはたらくようで、玄関前にメイド服の二十五、六の女性と、半纏に源と印がしてある初老の男が出迎える。オレの背中から下りた御手洗婆様が大きく背伸びをした。

「奥さん、帰りが遅いんで心配してたんですよ」男が言うと、メイド服の女性も「源さんに捜しに行ってもらおうとしてたんです」といい、オレに軽く頭を下げたとき、チラッと見えた胸の谷間が、ここ何ヶ月かのご無沙汰を思い出させる。

「マリさん、源さん。この男は……」

「あ、はい。役立ち隊本舗社長の山田洋平です」

直立不動で答えた。下も。そっちの方はいまいましいほど健在だ。

「まあ、いいわさ。散歩がてらキャロルを捜しているうちに神経痛が出てしまってな。休んでると偶然会ったんだよ。ついでに送ってもらった」言ってるそばから『ニャーゴ』鳴き声がして一匹のネコが現れ、御手洗婆様の足にまとわり付いた。

「奥様。キャロルならさっきかえってきましたよ。携帯持っていらっしゃらなかったでしょ」

「どうもあれはなあ、苦手じゃワイ」婆様が抱き上げ頬ずりすると、迷惑そうな顔してされるままになっていた。キャロルなんていう名から可愛い子猫を想像していたが、名前負けした小太りの、小憎らしい面した三毛ネコ。

(このう、のこのこ現れやがって、もう少し家出していればいいのに。これで仕事がなくなった)

「何か言ったかい?」

「いえー、良かったですねえ」

「まあ、いいわさ。ところでもう一つ頼みたいことがあるんだよ。マリさん、ちょっと案内してやって」

ネコを抱いたままトコトコ家の中に入っていく。

(神経痛よ、どこいった)

「こちらです」一歩先立って歩き出したマリという女性の右、左と動くヒップに見とれ付いて行くと、離れになっているこじんまりとした茶室に案内された。

「しばらくお待ち下さい」

茶室には古めかしい茶道具や、誰の書か? 踊っているような書体の掛け軸。庭の方からは、『コーン』と、鹿脅しの澄みきった音色。その音色に耳を傾けていると御手洗婆様が柿色の作務衣に着替え現れた。

「いや、助かったワイ。ありがとうさん」改まった口調で頭を下げられ俺は戸惑ってしまう。むしろ俺の方が祖母を思い出させてもらった。

「季節の変わり目はどうもいかんワイ。洋平さんといったか、そうかしこまらずに足をくずせ」

「はい。御手洗様」

「その御手洗様ってのはやめてくれないか。ミタのババアでいいワイ」

「それじゃ、ミタのバッ様と呼ばせてもらいます」

「それでいい、それで。ワシは親しみをこめてヨウヘイと呼ばせてもらおうか。お礼といっちゃなんだが、一杯いくか」バッ様が手を叩くと「失礼します」と、さきほどの女性がカートを押しながら入ってきた。

「マリさん、ああ、まだ紹介していなかったか」

マリという女性が「白川マリです。どうぞよろしく」挨拶して下がっていった。

出てきた酒は越の寒梅。最初の一杯をバッ様のお酌で飲む。「うまい」喉を小人さんが、メロディーを奏でながら下りていく。

ツマミは鯛の刺身やら盛りだくさん。残ったら貰ってかえり千尋にも食べさせたいと思ったが、キャロルもそれを狙っている様子。あっちに行けと目配せしたが、そっぽ向く。

「話は変わるが、三年になるかあ。マリさんにお世話してもらってるの。こんど嫁にいくことになったんだよ。そこでだ、代わりの人、捜してもらえないかね」

「それはめでたいことで」

誰かいたかな? あけぼの食堂のトメさん、ちかじか店閉めるといっていたな、年も五十そこそこ。五年前に旦那さん亡くして一人身だし、世話好きなトメさんならまさに適任だ。

「お任せ下さい。今週中にもこの人ならという人材を紹介できると思います」

「よろしく頼むよ。さあ。飲んで、飲んで」と言いながら、自分のコップにもなみなみと注ぐ。

「ところでヨウヘイ。うん、いい名だ。すんなりと言えるワイ。お主、いいツラしてるぞ。多少おっちょこちょいの気があるが、大器晩成の面構えをしておる」

「いえ、いえ。そんな、ご冗談を」

おっちょこちょいはよけいだが八十近いバッ様に言われ、オレは照れ、自分でも一番いいと思っている角度に、顔を傾けるのだった。

酒の上手さとツマミのよさも手伝って、すっかり二人ともご機嫌になり家族の話に。

「長男は銀座に店を構えておるワイ。こいつの嫁が曲者でな、まあ、いいわさ。次男は家を飛び出してな、たまに帰ってくるだけじゃよ」

「嫁姑の葛藤ってのは、どこにでもある話しですよ。わたしはネー」と、自衛隊のことや今の仕事に就いたいきさつ、離婚したこと娘の千尋のことなどを、誇張を交え面白おかしく話した。

バッ様は大喜びで腹をかかえ笑い涙まで出ている。そうしているうちに、いつしか古くからの歳の離れた友人のようになっていった。

「痴呆老人が家忘れたのかー、なんて」

「お前が声かけてきたときにゃワシは、ナンパされると思ったワイ」

刺身やらをお土産にキャロルの恨めしそうな目に見送られ、源さんに車でアパートの前まで送ってもらい部屋に入ると、千尋は待ちくたびれたのか寝ていた。

電話しておけばよかった。と思いつつテーブルを見ると、オムライスがラップに包まれ置いてある。脇に広告の裏に書いたメモが、『お父ちゃん、お帰り。お疲れさま』酔いも覚め目頭が潤みだす。

オレはこの子から幸せをもらっていたんだ。よくいじけないで真っ直ぐな明るい子に育ってくれた。改めて祖母に感謝し健気な娘の頭を、そっと撫でた。

㈣青大将

掲示板に貼った広告に〞自治会推奨〟と勝手に書いたおかげか依頼電話がひっきりなしにかかってきて、ミタのバッ様に紹介するはずのトメさんに、電話番と依頼内容の交渉などを頼むほどに。

そんなある日、

「青大将が玄関でとぐろを巻いている。なんとかしてくれ」の依頼が入る。

オレはヘビと聞いただけで『ギョッ』っとするほど苦手なのだが商売だ。

自転車(誰のか分からないがアパートの前に止めてあるので時々借りていた)で向かいヘビと対決。そこはそれ、スローモーションブギウギ。何とか捕まえダンボールに入れ、川原にでも逃がしてやるかと、自転車の荷台に紐で縛っていると、「この青大将、町田のトンチンカンに持ってくと五千円かなー、引き取ってくれるよ」見物していた旦那が言ってくる。

「トンチンカン?」聞き返す。

「ゲテモノ店だよー。レンガ通りにある。嫌だよ、この青大将食べられちゃうのかねえ。可哀相な気もするねえ」電話した当の奥さんが同情する。

五千円✷

「お代はいらないよ」

ホイホイと自転車を飛ばし町田に。五千円どころか「いまどきこんな立派な青大将みたことがない。また頼むよ」店の主人がポンと 一万円よこした。青大将には「とんだ災難だったなー、恨むなよ」と言い残し、ヘビ捕獲業に鞍替えするかなと、やや本気で思案の帰り道。

「ちょっと、ちょっとちょっと」

すれ違った警察官に呼び止められ、職務質問。

「オタクの自転車、鍵ついてないねえ。どうしてか、なー」

「いえ……あの……」

しどろもどろを怪しんだのか無線機を取り出し、自転車番号の照合をどこかに問い合わせ始める。自転車泥棒は窃盗罪。

タタリだー。

(な、なんと言おう。アパートのまえに……)

「該当なし、本当? 間違いない。これでノルマ達成と思ったのに……」警察官は無線を切り「お引止めしてわるかったね。近頃多くてさあ」残念そうにオレを未練たらしく見つめ、

「前科二犯はあると見たがー」なんてブツブツいいながら、オレのよりボロイ自転車で帰っていく。

「人を人相で判断するなー、ヘボ警官」後姿に小声で言ってやった。やばかったー、この一万で自転車買おう中古だと買えるだろう。

次の日。

「昨日はありがとねえ。うちの人もう歳でさー、事故でも起こされちゃ大変だから、使って」と、青大将騒動の奥さんが軽トラックを持って来た。あちこちへこんでいるが、車検がまだ一年もあるやつだった。

㈤運命の人

「このまえ頼んだ人はまだかね」ミタのバッ様からの催促。早く代わりの事務員さん捜さなきゃ。

「トメさん、誰かいないかね?」お茶を入れてくれたトメさんに、期待もしないで聞いてみた。

「アタシの姪っ子でよかったら……洋平さんも会ったことあるでしょ。洋平さん初めて店に来たとき、手伝いに来てた子、ヤクザみたいな男に絡まれていたの追っ払ってくれたでしょ。あの子アタシの姪っ子なの。いま一緒に住んでるのよー」

「ああ、あのときの。いい女って言ったら、確かトメさん『結婚してるのよ』って言ってなかった?」

「そうなんだけど……それがねえ、聞いておくれよ。家柄もいいし、一流企業に勤めてて、ヨン様に似てたから…。アタシ強烈に薦めちゃったんだよう」

ヨン様、誰だ?

「お見合いして結婚したけど。三年もしないでだよう『子供が出来ないのは家の嫁にふさわしくない』何て姑に言われてさ、可哀相に。そんなとこ、こっちからお断りだよ。今時そんなことあるのかねえ。あたしや悔しいよ」涙ぐみ、割烹着の端で目頭を押さえオレを見て「男は顔じゃないねえ」と、言う。

「……まあ、まあ。トメさんこらえて。姪っ子さん、ぜひ頼みますよ」それとトメさんの好意で、店を事務所として安く貸してもらえることになった。

「選びに選んで、この人ならという人材をやっと見つける事が出来ました。ええ、毎日オーケーです。残業もいといません。料理の腕なんてそりゃもう一流で、長寿を請け合います」などと調子のいいこと電話で言って、トメさんと共に御手洗家を訪れた。

「こんなりっぱなお屋敷でー」トメさんは躊躇していたが、御手洗バッ様はボケがかってるし少しの間でもかまわないからと、無理やり引っ張って玄関に向う。

「洋平さん、いらっしゃい」

キャタツの上から顔なじみになった源さんが、松の剪伐の手を止め声をかけてきた。玄関にマリさんが出迎え、バッ様お気に入りの囲炉裏のある部屋に案内してくれた。囲炉裏に炭が赤々とほてり、自在鍵からつるされた鉄瓶が、さかんに湯気を出している。

「おう、来たか、来たか」

バッ様は座布団にちょこんと置物みたいに座り膝にキャロルを抱き待っていた。トメさんを紹介する。

「初めまして。大森トメでございます。よろしくお願いします」両手をつき丁寧に挨拶するトメさん。

ミタのバッ様も「よくおいでくださった。御手洗です。こちらこそよろしくお願いしますよ」と。

「ではこの方でよろしいので?」

「いいも悪いもお前さんの紹介だ。それにワシだって人を見る目は持ってるつもりだよ。この人ならうまくやっていけるよ」キャロルの頭を撫でながらニコッと笑う。ホッと肩の力を抜き、お茶を持って来たマリさんにもトメさんを紹介する。

「マリさん、あとで源さんにも紹介してくれるかね。通いの人たちにもね」

「はい、奥様。じゃ、トメさん。早速ですが台所から説明しますね」

二人が台所の方に行ってしまうとバッ様が、改まった口調で話し始めてきた。

「ところでヨウヘイ。ぜひお前さんを見込んで頼みたいことがあるんだよ」

「はあー。なんでしょ?」

「あのなあ…事務所兼住まいが…六畳一間じゃ、ちと狭かあ…ないかい?」いいよどむような、バッ様らしくない、奥歯に物がはさまった話し方。

「それがですね。トメさんの店、事務所として借りることにしたんですよ」

「そうかい。まあ、いいわさ。古淵駅前に建ったばかりのワシのアパートがあるんだよ。それでな……店舗と住居が空いてる。どうだ使ってみるか。いや、お前さんにぜひ使って欲しいんだ」

古淵駅前のアパートじゃ家賃が十万はする。二部屋とすると二十万、とても払えやしない。

「今は仕事も起動に乗ったばかりで、駅前のアパートなんて、とても、とても」

「家賃なんて野暮なことは言わないよ。その代わりといっちゃなんだがなあ……、ワシの下の息子、お前さんのとこで、使ってみてくれないかね」

従業員を一人欲しかったので、渡りに船とばかり、

「そんなことならお安い御用で。引き受けましょう」

「そうか、そうか。暇なとき寄ってくれ。少し話もあるから。アパートの鍵だ。いつでもいいから使ってくれ。遠慮なんかするな」使う予定はないというのに、なかば強引に鍵を渡された。

明日からということで御手洗家をお暇し、姪がいるからと、トメさん宅にお邪魔することになった。

食堂だった店の椅子に座り、あれを取り外して机は三つ置いて、パソコンもいるな。一台でいいかと改造計画らしきことを練ってメモっていると、二階か下りてきたトメさんが買い物に行くというので弁当を頼むことに。「トメさん。ついでに幕の内弁当頼むわ。二つね。三九八のやつだよ」

「あいよー。由紀ちゃん、すぐくるから。あとで肉ジャガ持ってってー」

「いつもわるいねー、トメさん。助かるよ」

肉ジャガ、ツマミになるな。

「こんにちは」前から声をかけられ、ああ、姪っ子さんだ。顔をあげた瞬間イナズマが、不毛の地となる兆候が表れ出した脳天から下に、駆け抜けた。

「入月由紀乃です。洋平さんとは何度かお会いしましたわ、ここで」

ぴっちりしたジーパンに、胸のふくらみがそれとなく分かるシックな白いブラウス。カラッと晴れた湿りけのない微笑。それに聡明さを表す額。ああ、こんな女性だったか。

「そうでしたね。イリイズキさんこんばんは。こんにちは。なんて素敵な珍しいお名前。トメさんお茶、いない。しばらくです」焦り、取り乱す。

ここいいかしら? と、つぶらな瞳でオレに問いただすと、隣の椅子に優雅に座り、奏でるような声で、

「洋平さんのなされてる役立ち隊。素晴らしいお仕事です。名前も素敵ですわ。愛があります」

そう愛だ。なんと素敵な言葉、愛。

「はい、愛です。それも愛、これも愛です」

「私、叔母さんからお話を伺ったとき、洋平さんに憧れてしまいました。私も前からやりたいと思っていたのです。……洋平さんとなら、やってもいいと……」

ええっ、なんと! 心臓がドクンと跳ね上がり、西日がカッと食堂のテーブルにさした。

(由紀乃さんがやりたい。愛し合いたい。オレと!) なんて率直な人なんだ。これは夢か幻か。

♪ありの~ままに~メロディが流れ出す。

「オ、オレも、由紀乃さんと、やりたいです」

「どうして分かったのですか?」

「あ、愛です」

鼻息も荒くなる。

「私、頑張ります」

「頑張るなんて…そんな…そんなあ」

胸の動悸は上がりっぱなし。

「いっそのこと、法人としたらどうでしょう?」

ホウジンって? ニホンジンの由紀乃さんと……。

「私、看護師の資格持ってますからすぐに申請できます。それに介護事業は、営利法人じゃないNPO法人という制度を利用できます」

介護事業にNPO法人? それナニ?

何か会話がかみ合わないことにやっと気づいてきたオレは、慌ててその場を取り繕う術を考えるが……。

「NPO法人にすれば税制面での優遇処置も受けられるし資本金も賛同者の寄付金でいいの。私やります。やらせて下さい。一緒に」

トメさん、何て説明したんだ。

役立ち隊=介護?

単細胞の自分を嘆き一気にタガが外れ、足からズルズルと力が抜けていく。

「洋平さん」

「はい。やります、やりましょう」

勢いでいってしまったが、これが〞NPO法人・立ち隊本舗〟誕生の第一歩であった。

㈥ハエとボンボン

マリさんはミタのバッ様の計らいで、めでたくハワイで結婚式を挙げた。トメさんといえば、よほどバッ様と馬が合うのか半同棲? 状態でここのところ泊り込みが続いている。

オレはトメさんの店を事務所として使い相変わらず便利屋の仕事を続けている。一方、由紀乃さんは事務員の仕事をしつつ、NPO法人申請の準備に忙しく、ゆっくり話す機会がないまま日が過ぎていった。

午後の仕事は家の周りの草刈。ようし張り切っていくか。軽トラに中古で買った草刈り機を積み、由紀乃さんの「いってらっしゃい、気をつけて」の声に送られ向う。バックミラーのオレの顔、ダラー。

一軒家か、車まである。BMW。いい車に載ってるなあ。依頼者は名前忘れたが有名女優のボンボン。

友達でも呼んだのか、ワイワイキャーキャー騒がしい。「こんちはー。役立ち隊からまいりましたー」

「おー、適当にやってくれー」顔も出さないで。

やけに伸びた雑草を「お前たちオレに刈られて本望だよなあ」刈る、また刈る。二時間近くかかり汗びっしょり。集めた雑草をゴミ袋に入れ車に積んで終了。

「終わりましたー、三千円でいいです」

タバコを吹かしながら出てきた茶髪のボンボン。

「へえー、やけに高いなー」うそぶく。

「電話で言ったより安くしておきました」

「何だ、何だ」体育系らしいマッチョ男が二人出てきた。女性も一人。

「このオッサン、これっぽちやって三千円だってよ」

中の一人「マジで! 負けとけ、負けとけ。いっそタダにしとけばー」女の方を見ながらニヤつく。

あっち向いてホイみたいなパンダ女、ガムでも噛んでるのかクチャクチャ。(あーあ、こんなゴミみたいのが今時の若者かー。金がないわけじゃないのに、オレをからかって楽しんでやがる)

「電話でも言ったろ、五千円だって。この汗見ろ。これが労働ってもんだ。頑張って二時間で終わらしたからオマケしたんだよ」言うと、くたびれたオッサンから反撃がくるとはおもわなかったのか、黙り込む。

「おい、ヤングマン。ツラ見てるとムカムカする。止めたーオマケー。五千円だ」

ちょうど汗臭いオレに惹かれたのか飛んできたハエを右手の人差し指と親指でさっと捕まえ、唖然としているマッチョ男に突きつけ、あっち向いてホイ女が物欲しそうにしているので、惜しまず見せてやる。

「キャアー」

悲鳴をあげ、金髪に染めた髪が逆立った。

「あげれるツラかー。ハエの方が驚いて目玉回してるよ。お前らに比べるとハエの方がまだ可愛い。ほら見ろ、前足刷り合わせて『もう役目は済んだでしょ、早く離してくださいよ』って言ってる。分かるかなー、わかんねえだろうなー」

「そんなことありません。分かります、分かります」

「五千円だ。何か言いたいこと、ある?」

「な、ないです。お仕事ぶりには、超感激しました。お釣りはいいですから、どうぞ、納めて下さい」

早く帰ってくれとばかりに言ってくる。

「いいのー、悪いよ、それじゃー」

「いえー、そんなことありません」

「そうおう。毎度ー、また頼んでね。こないけど」

♪ニッポンの未来は♪イエー、イエー、どうなるの?

事務所に帰り、由紀乃さんに完了報告。

「あら、五千円多いわ?」

「オレの仕事振り見て感激してさー。断ったよ。でもどうしてもって、しつこくてさあ」

㈦量

「この間の話だがなあ。次男は十九歳になったばかりでな。お前のとこに行ってみろと言ったんだが…」

「そりゃ超高齢出産でしたねえ。難産で?」

「バカ、ワシが産んだと誰が言った。死んだ亭主が妾に産ませた子だよ」

「それはまた……」

「母親ってのは、うちの色ボケにはな、もったいないくらい、いい女だったが、かわいそうなことに、あいつを産んで間もなく亡くなってなあ」

「それでバッ様が育てたってわけで」

「まあ、そういうことだ。高校生のときだったな。自分の出生を知ってか、いじけてしまったんだよ。あいつだけが心残りで……。ヨウヘイ、お前の力でなんとかあいつを立ち直らしてくれ。煮るなり焼くなりお前さんの好きなように鍛えてくれんか。頼む」

いつもと違う弱気なバッ様に言われ「はい」なんて引き受けてしまったが、オレも雇いたいと言ったてまえもあるし、まあ、いいわさ。あれ、バッ様の口癖うつってしまったかな。

町田のライブハウス〈ピリカ〉で、用心棒のようなことをしているらしい。

町田に向う電車の中で、もう一度バッ様から借りてきた次男、量の写真を確かめた。高校生のとき先生を殴って中退、めったに家に帰らず、特技は空手、小学生になると極東空手に入門、黒帯か。ワルそうな面に見えないし、むしろ真面目な好青年って感じがする。

ライブハウス〈ピリカ〉は倉庫を改造した建物で、入り口に立っただけで宇宙のかなたから響くようなキュンキュン旋律が、オレの鼓膜に不快さを与え、中に入ると、映画〞メイン・イン・ブラック〟の一場面、そう《エイリアン達の集いの場所》を連想させた。

ざっとこうだ!

㊀中央の壇上ではオサケビ星人が、ニワトリの鶏冠を連想させるアンテナ立て、あっちにフラリ、こっちにフラリと揺れながら「★□◯◎╳」宇宙語で叫び、どこかと交信している。

㊁周囲を取り巻き体を揺らすクネクネ星人とアタマワルソウ星人が、歓迎の眼差しとはほど遠く、進入してきた異星人を見る目つきでオレをチラチラ見てくる。

㊂少し離れた所でビヤ樽に座り、首を上下に振ってるノッテル星人に「量、いるかな?」聞いた。すると頭の中のノッテル神経でも引っ張られた顔して「アッチイケ」と。言ったらまたノッテル星人に変身する。

㊃スプリングの飛び出しそうなソファで抱き合ってるサカリの付いたカップル星人が「チョーダセー▲✰ヤべー▼☓マジ☆☁キモイ★◎オッチンダー」なにやらチンプンカン語で話しかけてきた。

㊄オレも「リョウ、ドコウ? ノータリンにアンポンタン。教えてチョンマゲ」と言ってみると、どうやら女性のほうに通じたのか、隅の方でタバコを吸ってるニンゲンを、目と顎を使って教えてくれた。

米軍放出ジャンバーに穴だらけのジーパン。髪は伸びヒゲで人相がはっきりしないが、こいつだなと、なんとなく分かった。

「御手洗量君ですか? 私はこういう者です」千尋にパソコンで作ってもらった〞役立ち隊本舗社長〟の名刺を渡す。「俺に何の用?」無造作に言い放つと名刺をポケットに入れる。こいつ、見もしないで。

「ある人の紹介でね、君を私のパートナーとしてスカウトにきたんですよ」我ながらうまいセリフを思いついたものだ。

「興味ねえよ。帰ってくれ」言うと側にある空き缶に吸殻を投げ入れた。

「いや、無理にでも来てくれないかなー、オレが困るんだよ」彼は顔を上げ「オッサン、俺を知ってんのかよ」面倒そうに言うと、「ついてきな」一言いい、歩き出す。オレは仕方がないので後に続く。

立ち入り禁止の標識が立ち、周りを波板鉄板で囲まれている、始まったばかりの工事現場に来た。

彼は三メートルほど離れて立ち「俺を怒らすと怪我するよ。オッサン」オレに向って無造作に言い放つ。オレは苦笑しながら「オレを怒らすと痛い目合うぞ、坊や」返してやる。

「へえ、たいした自信ジャン。何か武道やったことあんのかよ」と。オレは「自衛隊にいたことがある」と

答えたが、「ふふーん」彼は鼻で笑い「軍隊でもねえサラリーマンの自衛隊かよ」

自衛隊をバカにされ少しムカッとしてきたオレは、

「話し合っても無駄なようだな」ブレザーを脱ぎ、立ち入り禁止の看板に引っ掛けた。

「オレが勝ったら何でも聞くか? 坊や」言うや否や「聞いてやらー」の声と同時に、彼の正拳がオレの顔のめがけて飛んできた。危うく交わしたが頬に風を感じ、次のブローは避けられずまともに食らい、三歩ばかり後ろによろめいた。

「オッサン、口ほどでもないなー、こんだけかよー。このへんで止めとこうかー」オジサン相手にやりすぎたかな。と、心配そうな顔して言ってくる。

「なーに、これからだよ」無造作に回し蹴りを太もも辺りに当ててやると、ちょっと戸惑った顔をしたが、次には上段回し蹴りがスピードをつけかえってくる。スローモーションブギウギが効き、頭を下げ外し、左肘で側頭部にエンビを食らわす。

上段回し蹴りを外されるとは思わなかったのか驚愕の目をしたまま後ろにぶっ飛んだが、頭を降ると立ち上がり向ってくる。後ろ蹴りを軽くみぞおちに当てると膝をつき喘いでいる。

「量さんよー。この辺で止めておこうかー」かるく挑発した。すると「クソッ」両手をつき起き上がり「ウオー」と叫びながら突進し、必殺の跳び蹴りを仕掛けてきた。ひょいと体を捻り右足の踝  あたりを掴み、手加減して放り投げてやると、だいぶ効いたようでフラフラしながらも向ってくる。スローモーションブギウギも時間切れ。使うまでもない。さっきのお返しにブローと顎に、膝蹴りをくれてやった。

工事現場で、むき出しの水道から置いてあったポリバケツに水を汲み気絶している量の顔にぶっかけた。「おい、量。いつまで寝てんだよ。ほら行くぞ」襟を持ち立たせると、うなだれ腹を押さえ付いてくる。

町田から橋本まで五駅。二人ともひどいありさまで乗客はオレ達を避け眼を合わせず、下を向く。

駅前のジョナサンに入りコーヒー二つ注文して量を促し、奥の席に向かい合って座った。背後のグループは同人誌の会合の二次会らしく、相模…文芸三十四号云々と、それらしい話題でにぎわっていた。

「お前なあ。甘えるのもいい加減にしろよ」話始めると、周りの客が席を移動したり帰りはじめるが、背後のグループは意にも介さない。もう怖い物なんて何もないのだろう。

「バッ様言ってたぞう『自分の子とわけ隔てなく育てたつもしだったが』ってな」

ちょうどコーヒーを運んできた若くないウエイトレスに「ありがとう」と言ったが、引きつった顔して行ってしまう。あまり長居はできそうもない。何からきりだすか?

「運命ってのはな受け入れなきゃしょうがないこともあるんじゃねえかー、量?」

「……」

「そりゃ誰だって恵まれた家庭に生まれてきたいさ。それは選べないだろう。だからなあ、与えられた場所で精一杯やっていくしかないんだよ」身を乗り出し、彼の肩を叩いてオレは、諭すような口調になる。

「お前を心配してくれる人がいるじゃないか。生きてるってのは、自分が一人じゃないって感じるときなんじゃないか。これからは違う生き方しなきゃ、なあ」

こいつ、何もいわねえ。

オレは話しているうちに、自分のことはさておいて何を偉そうなことをと、嫌気がさしてきた。壁の時計はもうすぐ五時。

「聞いてんのか量? 分かったら明日、頭丸めて、名刺にあるオレの事務所にこい」捨て台詞残し、伝票を掴むとジョナサンを出た。さて千尋は帰ってるかな? 餃子でも買ってかえるか。

㈧佳代子

NPO法人の申請が受理され、やっと待ちに待った訪問介護事業所指定通知書が届いた。前もってミタのバッ様の好意に甘え古淵のマンションを借り、介護事業所として必要なリホームをしていた。また由紀乃さんの看護師時代の同僚を筆頭に、ヘルパーさん六名を雇いいれた。全て由紀乃さんがしてくれたことだ。オレは〞NPO法人・役立ち隊本舗理事長〟という大層な肩書きが付いた。今日は土曜日で荷物など無いに等しい六畳一間のアパートから、五LDKのマンションに引越し、片付けもあらかた終わり、初めて千尋を連れお礼方々ミタのバッ様宅を訪ねることにした。

「千尋。これから行くとこな、御手洗って書いて、ミタライって読むんだから。お手洗いなんて言っちゃダメだよ」

「それくらい知ってるよう。もうすぐ中学だよー。それよりお父ちゃん」

「うん?」

「この間、刺身もらってきたでしょ。あのとき紙に書いてあったの見て『イキモノだから早く食べてね』って言ったでしょ」

「言ったけど?」マリさんが書いてくれた〞生もの〟

「あれ『ナマモノだから早く食べてね』って読むんだよおう。わたし、お父ちゃんが真面目に言うもんだから友達に聞いちゃたー。そういうことから虐めっておこるんだから、気おつけてもらわないと」

近頃、やたら憎たらしくなってきた我が娘。

千尋はトメさんとお風呂に、オレはバッ様と囲炉裏の部屋で向き合って酒を飲む。 バッ様の膝にいたキャロルが、どうやらオレに惚れたのか、オレの膝に移ってきた。

「ヨウヘイ、ありがとなあ、量のヤツすっかりお前に傾倒しておるワイ。あいつが頭丸めるとはなあ……」

「何か思うこと、あったんでしょ」キャロルの頭を撫でながら言った。

「あいつ、お前に、父親を見てるのかなあ? ところでヨウヘイ、ちと浮かない顔だぞ。こぶしの利かない演歌みたいなツラだ」

トメさんの料理した鯛の煮付けをつついていると、バッ様が言い出した。

「……恋とか……いろいろと……」日に日に由紀乃さんへの思いがつのるばかり。いい年して恋患い?

「あれま、お前も恋するのかネ? いいねえ、恋か」

「オレだって恋ぐらいしますよ。でもあれだなあ、バッ様とこうして飲んで話してると、元気が湧くような気がするなあ」

「ああそうか。そうか。嬉しいこと言ってくれるでねえの。なんなら今夜、夜這いにくるか。一度お相手して、元気を分けてやろうかい」

言った意味がのみこめず、間が空いた……、

「ひええっ! まさか! そんな!」慌てて箸を持った手を大きく振った。キャロルが驚きバッ様の膝に飛び乗った。

「冗談だよ。そんな真剣に驚く顔するな! レディーに対して失礼じゃないか。なあ、キャロル」

『ニャーゴ』

結局、日曜日の夕方までお邪魔した御手洗家から帰る途中、フロントガラスにホツンと落ちた水滴が、瞬く間に本降りになる。

ガソリンが少ないのに気づき道路沿いのセルフに寄る。ついでに隣接するスーパーでビールとツマミを買い車に戻ると千尋が窓を開け「お父ちゃん、あの人」指差す方に横断歩道を、傘もささず、素足で歩いている少女がいた。

「どうしたんだろうね?」見ていたが、何故か信号が赤に変わろうと点滅しているのに途中で立ち止まったまま動こうとしない。トラックが近づいてくる。

千尋にレジ袋を押し付け「千尋。目つぶれ」言うと同時に飛んだ。

横断歩道を通りすぎて急ブレーキをかけたトラックは、激しくクラクションを鳴らし走り去っていった。「大丈夫か?」抱きかかえた少女に声をかけ立たせようとしたが倒れこんでくる。素足のあちこちが擦り傷で血がにじみ、破れかかった白いワンピース、雨でびっしょり濡れていた。

「着替えどうしよう。お前のじゃ小さいかな?」バンドエイドや消毒液を片付けている千尋に聞く。

「いくらなんでも無理だよ。お父ちゃんの何かあるでしょ。ジーパンとか」

「リーバイスのー」気に入っている。

「大きすぎないかなあ」自分の部屋に行き最近窮屈になりかかったジーパンを持ってきたが、「下着は?」

「下着ならわたしのでいいよ。伸びるから」

居間の隣にある千尋の部屋で箪笥から出すのをチラッと見たら、ピンクのフリルの付いたやつ。

おいおい、いつのまに。

「着替えるように言って。濡れたの洗濯機に入れてって」ジーパンとシャツを渡すと「さっきの何だったのう? 二十メートル以上あったのに。目開いたら、あの女の人といるんだもの」

「あれっ、知らなかった。お父ちゃん、陸上の選手だったの。早いんだよ。百メートル十秒ちょっとかな」千尋にはこの人間離れした能力を知られたくない。

「ふーん」納得しない顔つきでキュンと肩をすくめ、浴室に行きかえってくると、「ちょうど風呂から上がったとこ。スタイルいいなあ。Bはわたしのブラで間に合ったから、まあまあかな。さてチャーハンでも作るか」

「え、なんと。お前いつからブラジャーなんて!」

「わたし、もうすぐ十三なの。関心なさすぎー」

「……カツオのたたき買ってきたから切って、ね」

「はーい」

献立の方はまったく娘まかせで、朝出るときメモを渡してくるので材料だけ買って帰るのだ。たまに早く帰ったときは千尋の采配に従って焼いたり炒めたり。これが意外と楽しく柔らかい気持ちになるのである。特別なことでなくても普通のことが、実は凄く幸せなことなんだと、新鮮な驚きと共に思うのだ。

浴室の方からドライヤーの音がして暫くたつと、ジーパンの腰あたりを指でつまみ、大きめのシャツを着て出てきた少女は、小さな声で「すみません」と言ったきり黙りこむ。

「まあ、座ってコーヒーでも飲みなさいよ。千尋、バンドの代わりになる物、何かないかな?」

「探してみるね」

高校生ぐらいか。体は一人前なのに幼い顔立ちで、不良少女にも見えないし……さて何から聞くか。

「お名前は?」優しく聞くが、「佳代子です」一言でまただんまり。〞ヒロシです〟なんてのいたなー。

「はい、これしかなかった」オレのネクタイじゃないですか。「お父ちゃん、お風呂入ったら。わたしミーバーのとこで入ったから」と言いながら、ここはワタシに任せてと、ウインクする。

風呂から出ると笑い声?「お父ちゃんって優しいんだ。ちょっとおっちょこちょいだけどね」そんな会話が聞こえ、出るに出れない。

「あー、いい湯だったあ」わざと大きな声を出しテーブルに座るが、ない。「オレのはー」買ってきたカツオのたたきもない。

「あれっ、食べちゃった」確信犯だ千尋は。

「ゴメンなさい」少女がすまなそうに言う。

「いいのー、気にしないでー」

気にする。

「佳代子お姉さんねえ。お腹すいてたんだって。わたしの作ったチャーハン、美味しいって。お父ちゃん、ラーメンでもいいでしょ、待ってて。はい、ビール」

「ツマミはー」

「チーズ、あったかなあ」

詳しいことは明日聞くことにして寝ることに。千尋の部屋にオレの敷布団と新しいシーツを運んでやる。俺の部屋はだだっ広い洋間。座布団を敷き段差が気になり、なかなか寝付かれなかったが、寝た。

『トン、トン、トン』

野菜を切るリズミカルな音で目が覚めた。聞いているうちに何故だろう、涙が滲んできて一瞬、母親が生きていた子供の頃にかえった気がした。

昨夜の雨も嘘のように晴れ、いい気分で台所に行くと、千尋とあの女の子、佳代子が朝食を作っている。

「オーハー、お父ちゃん。佳代ネーにねー、美味しい味噌汁の作り方教わってるの。朝市でお魚とか買ってきちゃった」

「おはよう」千尋は誰とでも打ち解けてしまう天才だよ。いいなあ、焼き魚と味噌汁。それに納豆。これが〞真面目な日本の朝ご飯〟だ。

三人での食事はまた格別で「マーユー」グルメ番組の真似したら千尋、睨む。

「いってきまーす」千尋が学校に行くと、また沈黙の世界。コーヒーを入れようとすると「私、家出してきたんです」話し始めると思ったが……またうつむき膝に置いた手を見つめている。「そうなの、それで?」

「家には帰りたくないんです。ここに置いてもらえますか? お願いです」思いつめた表情とすがるような口調で、訴えてきた。

「ご両親が心配してるだろう。オジサンが送ってあげるよ」当たり障りない言葉を口にしてみた。すると、「母が再婚して……義理の父が私を……私、死のうと思って……」言葉が途切れ途切れになり、泣き出してしまう。(母親が再婚……千尋……)「ようし分かった。心配するな。好きなだけいればいい。オジサンに任せとけ。これから服とか買いに行こう」

三日後、佳代子の両親を訪ね、きっぱりと話をつけてきた。

「元々私の子じゃないんですよ。前の亭主の連れ子だったのよ。すきにしてちょうだい」

派手な化粧をした深刻味のまるでない母親の言い草だ。義父のほうは酒でも飲んでたのか「玄関先で何ガタガタ言ってんだー。うるせえんだよう」大声を上げながら出てきた。

スキンヘッドに太い金の首輪。さながら成金ブルドックか。大柄な体に入れた刺青が、シャツの間からチラつく。

「てめえ佳代子はなあ、もう俺のものなんだ。ええ、若造。よけいな真似しやがるとただじゃおかねえぞ。さっさと佳代子をここに連れてこい」怒鳴り声を上げいきなり殴りかかってくる。軽く交わし逆手を取り、おもいきり捻りあげると、

『ゴキ』肩関節が外れる音がした。

「イテ、イテテテ…」と喚き散らし、玄関框に足を投げ出して「訴えてやる」と息巻く。オレは側にあったスリッパでスキンヘッドの頭を二三度引っぱたき、

「おい、お前。未成年強姦ってのはなあ、罪重いぞ」で、奴は黙り込み、「あ、あなた様の言う通りにいたしますからこ、この肩を、早くなんとかして下さい。お、おねがいします。おねがいしますよー」右肩を押さえ頭をぺこぺこ。情けない声を出す。

「しょうがねえなあ。半分だけ元に戻してやるからよく聞け。二三日してまた来る。そのとき完全に元に戻してやる。もしもだ、居留守なんか使ってそのままにしてるとなあ、痛みが増して元にもどらなくなるぞ。わかったか、おい」

「わ、わかりましたでございます」

関節を元に戻し(半分だけは嘘)念書を書かせ玄関を出たが、何か心にトゲが刺さったようで、どうにも腹の虫が治まらい。で、道に転がってた空き缶を、おもいっきり蹴った。馬鹿夫婦の窓ガラスが割れる、派手な音がした。

「佳代子、オレの養女になるかあ。千尋も喜ぶぞう」深刻にならないように気楽な口調で言う。

「私でも、いいのですか……」涙が握り締めた両手に落ちた。

ミタのバッ様に相談したところ、一刻も早いほうがいいと、知り合いの弁護士を紹介してくれた。

暫くしてポストのネームプレートに、千尋が書いた佳代子の名前が入ったのは、言うまでもない。

㈨イエナイ

「先生」

先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし、か。先生はよせと言ったのに、量のやつ。

「何だよ」

「事務所の前に、さっきから変な男がいるんですよ」どれどれ、確かにいる。〞役立ち隊本舗・相原支店〟の看板を見上げては、行ったり来たりしている見るからに、さえない男。

「ほっとけ、ほっとけ」気にして見ている佳代子にも言ったが、その男、入り口の前に立ちっぱなしで一向に入ってくる様子がない。

「量、営業妨害だ。一言いってきてくれ」彼がドアを開けるとつんのめりそうに入ってきた男は、重そうなリックを下ろすと、椅子に座ったままで用件を話そうとしない。服装はグレーの窮屈そうなスーツ姿で、よれよれのズボンのシワが目立つ。歳はオレと同じか少し下に見え、度のきつそうな丸縁メガネをかけ、髪はややボサボサ。何か悩み事で中々言い出せないのだろう。事情は人それぞれだ。

「君、どうした? うん」訳知り顔で聞いてみた。

「はい、イエナイです」

言えないって? 何だこいつ。

「どうしたって、ワタシが聞いてるのネ」

「はい、イエナイです」

「量! 引き取ってもらえ」するとその男、

「だからボクは道下と聞くから、名前は家内と、言ってます」口を尖らせ、ムッとした顔。

「何だ、名前なの。君ねえ、いくらなんでもワタシが君の苗字、知ってるわけがないだろう。初対面で」

「ボクも変だなとは……」

「ドウシタ・イエナイ。ややっこしい名前だねえ。改名したら?」気楽な気持ちで言ってみた。これがオレと彼との掛け合い漫才の様相となり、意外な展開になる始まりとは、思いもしなかった。

「な、何をおっしゃいます。ご先祖様に対し罰があたります。なにを隠そう道下とは、平家の流れをくむ由緒ある苗字。かの壇ノ浦の戦いで落ち武者となり…」

「講釈はいいから。私には今の君が、よほど落ち武者に見えるけどなあ。それで君、何か頼みたいことでもあるのかね?」聞いた途端、顔も隠さず、ワーっと泣き出した。「な、何だ、急に。どっかの馬鹿議員みたいな真似するなよ」面食らい三人で顔を見合せた。

佳代子がテッシュを男の前に置くと、チラッと見てメガネを外し、おずおずと取り鼻をかむ。さすがにバツが悪いと思ったのかメガネをもてあそんでいたが、「妻と離婚したんですーううう……」また泣き出す。

さてどうしたものか?「佳代ちゃん、女性の優しさで聞いてみてよ」

今年の夏は暑かった。こんなのも出てくるさ。

何々、北朝鮮がミサイル……「そうなの」……中国が南シナ海で……「それでボ クは探偵社に行って」……新聞を読み出したが、読んでる内容がさっぱり頭に入ってこない。だんだん腹が立ってきた。

「こらー、ドウシタ。自分の娘みたいな女の子にべラべラしゃべりやがって。おまえロリコンかー」

奴がオレを、怯えた顔で見る。

「所長、もう少しですから」

「まったく、何様だと思ってんだー」新聞を

読み出し暫くすると、「じゃドウシタさん。私に今話したこともう一度所長さんに話してみて。所長さんも顔ほど怖い人じゃないのよ、ね」

顔ほどって。十七才の娘に説得され「うん」なんて頷き、保護者を見る目つきで佳代子を見ると、話し出してきた。(このー、殴ってやろうか、こいつ)

「実はボク、公認会計士です。知らなかったでしょ」

「?……」かろうじて耐えた。

「オレが、知るわけ、ないだろうが。ケロッとした顔してよくいうよ。嘘いったら張り倒すぞ」

「所長」佳代子の目配せ。うん、うん。傾く。血圧が上がるのが分かった。

「青山墓地の近くに事務所を構え、助手も三人もいました。凄いことです。感心しますねえ」

冗談で言ってるの? 返す言葉に迷う。

「ほほう、青山墓地の近くに。中じゃなく、ね」

「妻は千葉の豪農の娘。ミスジャガイモコンテストで優勝したほどの美人。知人の紹介でお見合いし結婚しました。ボクとは、そりゃあ、お似合いでしたあ」

シャーシャーと言い、照れる様子もない。ミスジャガイモコンテストで優勝……美人?

「ボクは必死で働きました。ところが彼女、徐々に変貌していったのです。『私はこれだけの美貌だから、もっと良い暮らしができるはずだって』言うんです」

「なるほど、嫌な女だねえ」

「そんなこと言わないでほしいです」

「そのへんよくわからないなあ。自分からそんなこと言い出す女が、嫌な女じゃないなら、なんなんだ?」

「ボクは惚れてたんですよー。だから働いて見返してやろうと。収入もそれなりに上がりました。でも、でも彼女、外出が多くなって、泊まってきちゃうこともしょっちゅう……グスン」

「泣くんじゃないぞう。 泣くなよー」

「グスン……。これは怪しいと思いました。そんなときです。仕事の帰りに電柱さんに貼ってある〞ニコニコ探偵社〟の広告が目に止まったのは」

「ん、その名前、どっかで見た記憶、あるなあ」

「迷った末に妻の浮気調査を依頼してしまいました。言われるままに手付金五十万、指定された銀行に振込みました」

「君ネエ、直接行って契約とかしないで……あんたそれでも公認会計士なの?」問いただすと、内ポケットから身分証明書を取り出し、おずおずと差し出してきた。本物らしいが「偽造じゃないの? 佳代ちゃん、虫眼鏡あったかなあ?」

「所長、そこまでは」

「冗談だよ。それで」

「毎日ビクビクして電話したことを後悔しました。仕事も手に付かず近くのスナックに行ったのです。飲めない酒を無理して飲みました。すると『ここ空いてるかしら』って女性の声が、振り返えったら、なんと、〞金太郎〟が立っているじゃ、あーりませんか」

「金太郎? マサカリ担いで?」

「ち、違います。前田敦子のモノマネする女の子ですヨー。知らない? ウソ。信じられない。モダンなダンスを踊るその子に、そっくりだったのでーす」

「お前さん。アイドルオタクなの? 昭和初期の顔してよくやるネー。金太郎? 量、知ってるか」

「確か一発屋のお笑いタレントだったかな。このごろあまりテレビに出てないですよ。結婚したとも……」

「ふーん。君の美的感覚を疑うけどなあ」後で千尋のパソコンで、こっそり見てみよう。

「名は明美ちゃん。美しさが店のネオンに輝いて感動の嵐。事実は小説より奇なり。人生は驚きに満ちてますよお。さあ、この恋の行方は、エンヤッと、どうなることでしょう」

「おたくねえ。お笑い芸人?」

量、佳代子も笑いをこらえている。

「またやってしまいました。子供のころ父上が紙芝居やってたもので。興奮するとつい。いつも練習するのを見ていました。月光仮面、知ってますか? ♪月光仮面のおじさんは~正義の味方だいい人だ~疾風のようにあらわれて~疾風のようにさってゆく~月光仮面は誰でしょう~♪」立って歌いだした。

「や、止めろよ! お前さん……バカでねえのー」

まだ昭和の遺物みたいな男が存在していたとは!

奇跡だ!

「分かった、分かったから座れよ」量、佳代子も唖然としている。何をおっぱじめるんだ、この男。

「拍手はなかったですが、渋い喉を披露してしまいました。一種のトラウマでしょうか。クセかな。ボクも紙芝居やりたかったなーでも、羞恥心が邪魔して」

あるの?

この辺で〞お茶〟みたいな仕草、無視。だんだん怒る気も、うせてきた。

「君、吉本に入ったほうがよかったんじゃないかい」

「よく言われますが…ボクだって男です。モヤモヤするときもあります。女性の方から誘ってきたのです。ホテルに行きましょうって」

オレと似たようなパターンだな。

「夢のような素敵な夜を二人で過ごし、朝起きたら、彼女は消えていなかった。ガクッ」

おっ、パターンが違った。

「夢も覚めてもあの女性、明美ちゃんのことで頭がアップアップ。気が狂いそうでした」

「それ言うなら、寝ても覚めてもっていってよ。なんか疲れてきた。佳代ちゃん、コーヒー入れて。こいつのはいいからね」

話を聞いているだけなのに、この疲れようは何だ。

「はい、ドウシタさん。喉渇いたでしょ」

入れなくていいって言ったのに「ありがとう」なんていいながら、佳代子の手を握ってる。

「おいロリコン。佳代子にはなあ、ここにいる量というれっきとした彼氏がいるんだ。なあ、量」

量のやつキョトンとして、機転きかせろよ。こういう男にはこれくらい言わないと、ストーカーになり兼ねない。あれー佳代子。真っ赤になってる。

「よし、それで」うながすと、まだコーヒーを飲んでないのにって顔して、オレを見やがる。

「それではお待ちどうさまでした。さてこれからどんな展開になるのでしょう。想像してみましょうね」

「前置きはいいから。ほんとに君のキャラにはついていけないよ。量、佳代ちゃん。まだ聞く?」

「先生、ここまできたんですから聞きましょうよ」

「私も聞きます」

「そうおう。ドウシタ名人、出番でーす」

「はい、ではお言葉に甘えて。暫くしたらニコニコ探偵社から調査書が送られてきました。ボクは心臓がドキドキ、顔もほてってポッポッポ鳩ポッポ」

「……君ねえ、会話に効果音いれるなよ。まったく」

「みなさん、驚いちゃいけませんよ。妻の調査書でなくあの女性明美ちゃんとのツーショット写真だったのです。それもモロで」

「なにっ! モロ。どんなポーズで?」

「先生、それは関係ないことでは」

量のやつ。

「いやー、相手のな。それよ、それ。女の顔なんか写ってるかなーなんて思ったわけよ、ね。はい続き」

「ボクは呆然としてしまい、そのときです。しじまを破って電話が、タララララララ~と鳴り響きました。乙女の祈りです」

「…だからねえ君……。もういい。はい、それからー」

「受話っ器を恐る恐る取り、心臓がまたドキドキ……」

オレの顔を見る。うん。首だけで傾いてやる。

「不気味な声で『見たかね。それが奥さんに知れたらどうなるか分かるよねー』と、ボクを脅かしてくるのです。そしてネガを買わないかって。三百万で」

「買ったの?」

「はい、アジトみたいな所でネガと交換しました」

話終わってすっきりしたのかコーヒーを飲みだすと

「冷めてる」

言う? 普通。こんなときに。

「写真持ってるの?」リックを開け、宝物を扱うように取り出しテーブルに置いた。

「どれどれ」さりげなく。「何だあ、これー」女性がシャワーでもしたのかバスタオルを体に巻きつけ、それをこいつが馬鹿ズラして見てるだけの写真。肝心の女の顔もボケてる。

「それを妻に見られてしまい家を追い出され、東京流れ者。流れ流れて相模原。ああ、無常。ザ・エンド」

「???」

「ボクが建てたメルヘンチックな豪邸も妻に取られ、ゴージャスな事務所も閉めました。慰謝料もがっぽり払い、ボクにはお金、あーりません。ああ、ボクは死ぬ。死ぬんだーボクはー。死にますから~その生命保険で~タタンのタン」

何だあ、このタタンのタンって?

感極まったのか腕を組み、天井を睨むと、

「あの明美という女を~お願いだから~捜しだし~死んだ僕に~線香の一本でも~上げてやれと~タタンのタン。いってえくだせえ~」言うやいなや立ち上がり一歩踏み出し、歌舞伎役者が見得を切るような顔してオレを、キッと見る。☂▲☀もう、もうダメだ。

「このう! 死ぬ、死ぬってうるせんだよう。そんなに死にたきゃ、あそこの手摺貸してやるぞ。量、ロープ持って来~い。ついでにひとっ走り~駅前の~極楽葬儀社に行って~棺桶一つ担いでこ~い。佳代ちゃん坊主呼べ」口調が似ているのにも気が付かず一気に言うと彼は、ネズミに噛み付かれたような悲鳴を上げ、佳代子の後ろに回り込み「助けてくれー殺されるー」と叫び「命ばかりはー」とオレに向って手を合わす。

オレの気力もついに尽きた。

「ドウシタ。さっきから聞いてりゃ下手な漫才語ったり泣いたり喚いたり。お前騙されたのも分からねえのか、何しにオレのとこに来たんだよ。何で三百万取替えしてくれって言わねえんだ」後の方はしんみり話すと彼はうなだれ泣いている。どうするか? この男。

「量。こいつはしばらくオレが預かるから車の荷台にでも乗せて。それと千尋がバッ様のとこにいるから寄って家まで送ってくれ。佳代ちゃんも一緒にいって」

「わかりました。先生は?」

「もう少しで帰るから、電車で」

世の中いろんな人間がいるから面白い。人の出会いって何なのだろう? 不思議なものである。夕方の帳が下りた相模原の街を、古淵に向う電車の扉に寄りかかり眺める。窓にはこの街が好きになってきたオレが写っていた。

第一部 完

第二部〖ちょっとだけ予告版〗

「お父ちゃん、あのオジサンなんなのお。山田の娘ですって挨拶したのね。そしたら顔色変えるんだもの。わたし傷つくー」

乞うご期待!

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