そして夏
相模文芸31号掲載作品
現在は敵討ち、いわゆる仇討ちですが、勿論法律で禁止されています。丸山教授。その法律とは?
「はい。1873年、明治6年2月に制定された、〞仇討ち禁止令〟という法律ですね。被害者の遺族また親族に代わって国が、刑法の定めにより加害者に罪を償わせるということです。ですが今回の事件は、はたして仇討ちにあたるかどうか……」
丸山教授、ありがとうございます。さて、この川辺公園殺人事件の場合、死者2名、重傷者4名という大事件ですが、事件の1部を知る、近所に住む、K氏としておきましょうか。彼の証言により事件全貌がある程度あきらかになったわけです。また、これにより全国から加害者に対しての同情の声も上がっているようですが……..。
⑴
やっと見つけた。
「これだ!」
といえる、理想の家。
日曜日は勿論、会社の休みとか利用して何件不動産屋を回ったことだろう。いままで見てきた中にも満足できる物件はいくつかあったが、何かが欠けている気がして、決められなかった。そこは都心から離れ通勤には少し不便だが空気が澄んでいるし環境も抜群にいい。価格もこの辺の相場よりぐんと安く、よく今まで売れずに残っていたものだ。
家のすぐ前が公園になっていて、そこをなぞるように小川が流れ、川辺に沿って桜の木が等間隔で並び、天然の芝生が広場をやさしく被っている。
敷地内にもイヌツゲで囲んだ庭もあるが、公園の1部であるかのように1体化し、見た目より広々とした趣だ。
「あら、いいわねーチロ。広い公園で散歩もできるし、後で行ってみようか」妻の幸子がチロと庭ではしゃぎ廻っている。彼女も気にいった様子。
今住んでいる社宅は風通しも日当たりも悪く、喘息ぎみで身体が弱い妻にとって、決してベストな環境とはいえなかった。また、寝たきりの義母の世話などで1斉清掃や自冶会などに欠席しがちであった。そのうえ、本来社宅では禁止になっている犬も飼っていて肩身の狭い思いもしていた。やっとこつこつ貯めたおかげでどうにか頭金が出来た。あとは会社の持ち家制度を利用すれば待望の我が家が持てる。
「わーい、見てみて。台所だってこんなに広い。ここにテーブル置いて。冷蔵庫はここね」
台所を見てる彼女、目が輝いて子供のよう。
「ここに決めようか」
「ほんとう! 嬉しいあなた」
久しぶりに見る妻の笑顔だった。
「素晴らしい景色。桜の木があんなに。今からお花見が楽しみ。いいわー。ありがとう、昭雄さん」
1階の和室で義母がベッドを起こし、外を眺めながら私に笑いかけてくる。早く両親を亡くした私は親孝行の真似事をした気分になる。
台所で夕食の準備をしていた妻が、「昭雄さん苦労したのよー、ここ探すのに」そばに寄ってきたチロを抱き上げながら、誇らしげに私を立てる。
「今日はすき焼きよー。お肉も上肉買ってきちゃった」妻のエプロン姿が晴れがましく見えた。
「いいね、すき焼き」
「ビール、冷えてるわよ。チロは、サラミのスナックね」
幸せだ。愛する妻がいて。私が人並みの生活をおくれるのも彼女いればこそだ。そうでなかったなら、障害者の私の人生は色あせ、惨めになっていたに違いない。
「2階の書斎で整理してるから」書斎という言葉の響きに、自分で言って照れる。中堅の出版社に勤める私は、それなりに書籍類が多かった。土、日を含んで1日有給休暇をとっていたが、明日からの出勤に備えての準備もあった。
あらかた片付いたころ、階段の下から妻の呼ぶ声。
「あなたー、ご飯よう。お母さんお願いねー」
「はーい。わかったー」
階段に取り付けた手すりに掴まりながら下り、義母を車椅子に。
「悪いわねえ、昭雄さん」
狭い社宅ではテーブルも置けず、義母はベッドで1人で食事をしていた。
テーブルを囲みながらの夕食は会話も自然とはずむ。そんな私達をチロがゲージの中から羨ましげに見ている。
チロのため、玄関ドアの下に外からも中からも出入りできる、小さなドアを取り付けた。
「あら、いいわねーチロ。いつでも庭にでれるね」
ちょうど梅雨も明け夕方になると、浴衣を着た子供達が、花火を楽しむ光景が見れた。そんな長閑なひと時を妻とベランダで眺める。
「きれいだね」ゆっくり時が流れていくようだ。
お隣の、柿本さん宅に引越しの挨拶に行く。隣といっても道路を挟んで100メートル位離れているが。
「今度引っ越してきた山田といいます」と、持参した洗剤を渡しなが挨拶したが……1人で住んでいるらしく、温厚で実直そうな田舎の人間とみえたが、「ああ、そうですか」と、短い言葉を発し、何か言いたげな様子だったが、そのまま黙りこむ。
⑵
ある土曜日の夜、平穏な日々が1変した。9時頃だろうか、テレビを見ていると『バーン』という凄まじい音と騒がしい嬌声が聞こえてきた。チロも庭で吼えている。
何事だろう。
2階に上がりベランダから見ると、3名の若者達がオートバイを走らせながら手に持った花火を振り回し、広場では4、5人が大型花火をうち上げ、閃光と爆音が野外スピーカーから吐き出されるように押し寄せてきた。
側にきた幸子に「もうすぐ終わるし、今日だけのことだろう……」不安げな妻に言ったが……。それは真夜中近くまで続き、次の土曜日も同じ状況だった。
「昭雄さん。何とかして……」義母のかぼそい声とすがるような目。
私は小学校に入学するころ小児麻痺を患い歩行がままならず、左足に補助具を付けるようになった。歩くたびに『ガチャ。ガチャ』音を立てひきずって歩くので「ガッチャマン。ガッチャマン」とはやし立てられ、いじめられた。不運は必ず誰かにふりかかる。子供は残酷な生き物。私は格好の対象だったのだ。親への不満。学校でのストレス。それらを発散するためには〞イケニエ〟が必要なのだ。悔しくて涙を滲ませる私に、さらに追い討ちをかけて、いっそうはやしたてるのだった。
大人になって私は、人との関りを持たないようにしていたし、このような場面では知らないふりをしたり、お金でごまかしたりして、こそこそ逃げていた。だが、今は1家の主人。頼りにされているのだ。何か行動をとらなければ。
着替え、玄関で補助具を付ける。
「あなた。気をつけて……私も行く」
「いいよ。待ってて」妻を危険な目になんて、あわせられるものか。
庭で吼えてるチロを家に入れ、自分を奮い立たせ若者達に向って歩き出したが、『ガチャ。ガチャ』左足を引きずる音が心臓の鼓動と1緒になり、足を鈍らせる。
「き、君達。こ、ここは花火禁止だよ。そこに、注意書きの看板がある、だろう」
リーダー各と思われる、17、8の大柄な少年に向っての声が、うわずる。
「オッサン。なに寝ぼけたこと言ってんだヨー。ここ公共の場だって。オッサンの庭じゃねえジャン」ふてぶてしい態度でニヤニヤしながら私に吼える。
「警察に通報するから……」脅かして言ったつもりだったが。
「へへー、すればいいジャン。俺まだ17になったばっかりなの。何やってもね、少年法で守られてるのー。金でもくれっていうなら考えてもいいけど。なー、みんな」
仲間を振りかえり、うそぶき動じる気配もない。
私はこの場を治めるつもりで財布を取り出し、1万円を渡した。私の昼食代だ。
「オッサン、話わかるジャン」言うと、してやったりと、どこか勝ち誇ったような表情が、ありありと浮かんでいた。慣れているように。
隣接する駐車場に置いたバイクに乗ると凄まじい爆音とともに去って行く。
あんな奴らに屈する自分の存在が、小さく思えてならなかった。
「彼らと話したら、分かってくれたよ」玄関前で心配そうに待っていた妻に言ったが、お金を渡したことは黙っていた。
だが、彼らは次の土曜日も来た。人数も増えて。
「オッサン。あれぽっちの金で俺たちの楽しみ奪うつもりかよー。あの10倍はもらわねえとなー」
この間でもう済んだと思った私を、せせ笑う。
笑い声を背中に浴びながら逃げるように引き返し、玄関先にいた妻に何も言わず居間にいくと、受話器を取った。自分の甘さに、くやしさで、番号をプッシュする指先が小刻みに震える。
「こ、こんな遅い時間なのに……公園で花火をしている者がいるんです。ち、注意してください。は、はい。3丁目の、山田です」興奮しながら話すと相手の警察官は「了解しましたー。近くのパトカーに連絡してみますから。そうですねえー、5分位で行けると思いますよ」のんびりした口調で言う。
「パトカーが来てくれるって」
側にいる妻に引きつった笑顔を向けた。
(まだか、まだかな。遅い)
30分位してパトカーがサイレンを鳴らしながらやってきたが、若者達はパーと散ってしまい、暫く止まっていたパトカーが行ってしまうと、また集まり出し花火を始める。再度電話するが……イタチゴッコだった。そしてまた土曜日が。
「はい、はい。七曲り署。またオタクかー。事件はねえ、いっぱいあるの。お宅だけにかまっていられるほど警察は暇じゃないんだよー。もうすぐ夏も終わることだし、ね」……私は言い返す言葉が思いつかなった。『今年転任してきたばかりなのに、こんな忙しいところだとは、まったく』と呟く声が、電話ごしに舌打ちといっしょに聞こえてきた。
⑶
朝、新聞を取りに行った妻が、青ざめた顔をして居間に。
「どうしたの? 顔色が悪いよ」
「ポストが壊されてるの。それに自転車のタイヤが切られて……」
「えっ!」
引っ越そうか? 会社から借りた住宅ローンがある。1度出た社宅は入れないし、借りたお金も1括で返さなけらばならない。規則で、返せないと会社を辞めることになる。障害者の私をおいそれと雇ってくれる企業など、そうあるわけがない。
紹介してくれた不動産屋に相談に行ったが、買った値段より低い価格でローンが残る。しかたがない。土曜日になると義母を一泊のショートステーに。チロをペットホテルに預け、私達夫婦は近くのビジネスホテルに1時避難することにした。
これが私の立てた対策だった。
夏が過ぎ秋になると、喧騒に代わって嫌がらせが始まった。車のボデーに引っかき傷とスプレーで、〞死ね〟と落書きが、それにガソリンも抜かれていた。警察に通報したが捜査はおざなりで終わった。
「近くの悪ガキどもだなー。最近多いから困るよ。まあ、まだ子供だからね。その内おさまるでしょ。少子化も進んでることだし、更生の機会も与えないとねえ。また何かあったら、遠慮なく通報してヨー」
そんなことが重なったある日。
妻に付き添って行った病院が、連休明けで込み合い、遅くなり帰ってくると、義母がチロを抱きかかえ興奮した口調で話し出す。
「誰かがね、昭雄さんの車にスプレーで悪戯しようとしてたの。私が大声上げてね、チロが追い払ってくれたのよ」義母の部屋から車庫が見える。
「偉いぞ、チロ」尻尾を振ってるチロの頭を撫でてやった。義母には車にキズを付けられたことは黙っていた。8万も出して修理したばかりだった。
それから数日後、朝起きるとチロの姿が見あたらない。
(おかしい? 昨夜庭の方で吼えていたが……)
いつも妻の枕元でジッと起きるのを待っているのに。公園に捜しに。
「チロ、チロー」手分けして捜した。
「キャー、あなたあ!」ただ事でない妻の叫び声。急いで向ったが……。
チロは首にロープを巻かれ、桜の木に吊り下げられ、死んでいた。前足と後ろ足が無残にも切断され、捨てられていた。
「いやだー。いやだー」泣き崩れる妻。庭にドックフードの缶詰が、これ見よがしに置いてある。
あいつらの仕業だ。ここまでするとは。警察署に相談に行ったが……。
「ペットが殺されたってえ、器物損壊罪だなー.それで証拠でも? まあ1応調べてはみますがねえ」
「はっ?」告げられた言葉が理解できず目を見開く私。(器物損壊罪って? チロは我が子同然だ)
「お気持ちは分かりますがねえ。動物愛護協会に相談されたらいかがですか? 証拠があれば動物愛護法に基づいて、動物虐待として調べてくれますよ。警察は人間の事件で、いっぱいなのよ」うんざりしたように顔をしかめる。それっきり警察は何も行動をとってくれた様子もなかった。
『皆の力で住みよい街づくり。なくそう暴力を』
安全都市宣言の看板が、空しい。
⑷
急ぎの仕事で遅くなり帰ってきたが、家の明かりが付いてない。幸子は今日病院のはずだが……まだ帰ってないのか? 玄関は鍵がかかってなく、ドアを開け玄関灯のスイッチを入れた。妻の靴。
(何だ、帰ってるじゃないか)
「ただいまー」
だが、家中シーンと静まりかえっていつもの応答がない。義母の部屋からも。おかしい。靴を脱ぎ居間にいったが、誰もいない。2階かな(疲れて横になっているんだろう)自分に納得させ階段を上がる。
寝室にもベランダにも妻の姿は見あたらない。義母の所か? ノックしてドアを開けたが2人の姿はなかった。ベッドの布団が乱れたまま。閉じているとばかり思っていた窓から、ひんやりとした秋の風が入り込む。閉めようとした、ふと、外を覗くと、妻が放心状態で座り込み側に義母が、横たわっていた。
自分でベッドから下り、這って窓を開け転落。たった1メートルの高さなのに……首の骨を折り死んでしまうとは。警察は自殺で処理したが……。あいつらだ! 家か車に悪戯しようとしたあいつらを追い払おうとしたに違いない。きっとそうだ。
その頃から妻は、愛するものを立て続けに失なった喪失感からか、言動がおかしくなり始め、喘息もひどくなった。精神科での診断が統合失調症。入院することに。
2ヵ月後退院した妻は、鬱状態は治りかけていたが薬の副作用か、眩暈と共に歯軋りがひどく食事の支度や家のことができる状態ではなかった。
私は、そんな妻がかわいそうでならない。
「幸子。出来れば僕が代わってあげたい」
「いやよ。あなたにこんな辛い思いさせたくないもの、ゴメンね。何も出来なくて」力なく笑う妻。
「何を言ってるんだ」
「彼方の補助具、新しくしないと。音もひどいし、歩きずらそう、私のためにお金使って」
「なにまだまだ大丈夫だよ。よけいな気を使わないで、ゆっくり養生しなきゃ」揉んでる妻の足は、痩せて細い足だった。
そのころ選挙の時期「皆様の温かいご支援で赤星をよろしく、よろしくお願いします」マイクのボリュームいっぱいに上げた選挙カーが、連日走り周る。
「みなさま南国原は今、汗だくになりながら活動しております。この若さをごらんください」マイクを持った男を先頭に、自転車に乗った候補者。
公園では子供連れのお母さん達に向っての演説が始まる。
「私は待機児童をゼロにします。お年寄りが安心して住める社会を実現します」
(そんなことより妻が寝てるから早くどこかに行ってくれ)面と向って苦情をいいに行けない、情けない自分がいる。
妻の代わりに病院に行き先生に症状を訴えた。
「薬の副作用はねえ、しょうがないですよ。なんらかの形で出るものなの。この薬やめるとまた悪化しますよ。それでもいいの?」脅かすような言い方。
いいわけがない。取り合えずと睡眠導入剤を処方した。薬局で呼ばれたとき気がつく。診察室にカバンを忘れたことに。
「すみません。診察室にカバン忘れてしまって」
呆れ顔の薬剤師。慌てて引き返した。
診察室のドアをノックしようとしたが、少し開いていて中の会話が聞こえてくる。(入れ違いに製薬会社の営業マンが入っていったが)
「先生。今度の精神安定剤はどうでしょうか?」
「そうだねー。丁度、いま治療している患者の旦那というのが来てね。副作用が強いみたいだなあ。もう少しデーターを取ってみるか」
「そうですか。分かりました。どうですか? 今度の金曜日あたりゴルフでも? 泊り込みで。先生も息抜きが必要でしょう。これ研究費として」
「いつもすまないね。そうだな金曜日は、と。あ、無理か……まっいいかー、君の誘いは断れないからなあ」
私は中に入り、何も言わずカバンを掴みドアを閉め、薬局で薬を受け取ると足ばやに駅に向った。
くやしい。誰かが言う。
『ガチャ、ガチャ』補助具の音が響く。
⑸
秋が終わり冬が来て、何年ぶりの大雪が降った。
電車のダイヤも乱れ途中で停まる。『信号待ちのため暫く停車します』の放送がなる。窓の外を見ると、クリスマスの飾りネオンが、壁1面に幸せをみせびらかすように、キラキラ輝いている。
バスも遅れ、やっと公園入り口のバス停に近づくと、柿本さんがいるのに気が付いた。公園には人だかりが。パトカーの赤色灯も見える。(何かあったのか?)不安が胸を横切る。
柿本さんが慌てぎみに近づきながら「奥さんが大変だよう。何回も会社の方に電話したんだが……」
妻はチロが殺された桜の木にロープを掛け、首を吊っていた。下ろされた妻の亡骸に絶望と一緒にしがみ付く。なぜだ、なぜだ。妻を愛し、ささやかな幸福を求め生きてきた私。激しい怒りは、自分自身にも向いていた。私は警察官や野次馬がいるにもかかわらず、「バカ野朗、バカ野朗ー」普段使ったこともない言葉を喚きちらし、狂ったように辺りかまわず雪を、投げつけた。
「あの家に引っ越してきた人は1年もせず、みんな他に移ってしまうんだ。だから山田さん1家もそうするだろうと思って」通夜に来た柿本さんが言った。
もっと早く〞そのこと〟を、教えてやるべきだったと。
家の中は妻、義母、チロがいたときと寸分変わらぬ配置と空間を留めているが、色彩というものがない。無機質で、ただそこにあるというだけ。
思い出すのは楽しかったことばかり。
自分の物は買わず、洋服など古着を自分で仕立てなおし「これ見てー、幾何学模様で綺麗でしょう」と、自慢げに言った、幸子。壁に彼女が作った詩が掛けてある。引っ越してきたとき作ったもの。
『私の街』
もし私の街に来ることがあったらね
悲しいこといっぱい持ってきて
駅に下りたら街を歩いてみてごらん
心優しい人たちが
「こんにちわ」って
声かけてくれるから
私の街に来てごらん
きっとみんな笑顔を向け
笑いかけてくれるから
嬉しかったのだ幸子は……。この詩が微笑ましいのか切ないのかよくわからない感情がない交ぜになり胸に押し寄せ、涙が頬を流れ、とまらない。
私は抜け殻のような日々を過ごしていた。
いち面の銀世界と化した公園を、ただボーっとベランダから見ていた。すると、幸子とチロがいっしょに遊ぶ姿が浮かんでくるではないか。
ーあなたー。下りてきてー。楽しいわよー。
「いま行くよう。待っててえー」急いで階段を下り玄関に向い、補助具の上からビニールの袋をかぶせドアを開けた。が、妻とチロの姿はどこにもなかった。
溜息と1緒にドアを閉め長靴を下駄箱に仕舞おうとした、妻の赤い長靴。2人で買いに行った。
私は自分のを選ぶとき、冗談のつもりで、片方だけ下さいなんてね。と言ったら妻が「バカなことは言わないの……今年、雪が降ればいいなあ。公園でチロと遊べるし、彼方とは雪合戦やりたいね」って言ったっけ。
ああ…。
私の中で希望、生きる喜び、あらゆるものが消え『やっつけろ。やっつけろ』という声が、渦巻く。渦巻く。
⑹
私は会社を退職し、退職金と貯金を解約して家のローンを支払うと、駅前のアーチェリークラブに入会して毎日狂ったように通いつめた。
公園が暗くなり誰もいないと、15メートルぐらい離れた桜の木に的を取り付け、街灯の明かりを頼りにベランダからそれに向かって撃った。無くなると脚立を持って取りに行きまた同じことを繰り返した。指の皮がむけ血が滲みだす。それでも止めず撃つ、撃つ。
通信販売で狩猟用の矢を手に入れた。矢をすばやく取り出せる筒も。
春が来て桜も散り梅雨も明けた。
そして夏。
日中はうだるような暑さで、夕方は昼間の明るさをたたえていたが、蝉の鳴き声が止み辺りが暗くなりだすと、小川の方から涼しい風が吹いてくる。
場所はあらかじめ決めていた。1段高くなっている花壇の横。公園全体が見渡せるし、下の小道が、駐車場からの抜け道になっている。
矢筒に15本の矢を入れ弓を持つ。
Sの字に上に続く石段を『ガチャ。ガチャ』踏みしめ上り、花壇の横でジッと待つ。
夜の公園は、見捨てられたようにガランとしていて、夏の花の香りがしてきた。
けたたましい爆音を吐きながら次々とバイクが駐車場に入ってきた。待つ間もなく爆竹と飛行花火の光と騒がしい嬌声で、去年と同じ状況が再現される。矢筒から矢を取りだし、花火を振りかざしている男に向ってなんの躊躇いもなく狙い、撃った。
胸のど真ん中に当たった。
刺さった矢を信じられない目で見て走り出しバッタリ倒れる。その場にいた後の連中、何が起きたか状況がつかめず、その場から動けずにいる。
(次はあいつ)撃つ。ちょっとそれ脇腹を掠める。(もう少し上だ)2発目を撃つ。命中。やっと異変に気づいた彼ら、パニックになり逃げ回る。
背中に向って撃つ。
なんという充実感。なんという爽快さ。今の自分に言ってやりたい。「出来るんじゃないか」と。
撃つたびに口元がゆがむ。
(あ、バイクに乗った男が逃げるぞ)いち早くバイクにたどりついた男が抜け道をアクセルを吹かし、私の方に向ってくる。(ここにいるとも知らずに)
あいつだ! リーダー格の男。月明かりと街灯が眉毛を剃った顔をくっきり映し出す。自分の顔に浮かぶ笑いを自覚する。弓を引き立ち上がる。私が誰であるかを知った彼の驚愕の表情と狼狽が、嬉しい。
撃つ。
矢は急ハンドルを切り曲がろうとした彼の右腕に刺さり、バイクはバランスを失い転倒しガソリンに引火。彼は炎に包まれのたうち転げ回っていたが、やがて動かなくなった。
「おもいしったかー」叫んだ。自分の声とは思えない甲高い声。
もう1度言ってみる。
「おもい、しった、か…」
今度は小さな声だった。
ふいに思う。
(自分が、私が、こんな恐ろしいことを、出来たなんて…………彼らと同じじゃないか……)
複数のパトカーのサイレンが聞こえてきた。
完