風の行方  第一部

 そいつは高校時代に同じ柔道部にいた奴だった。こんなところでばったり会うとは。クラスも別で部活を通してそれなりの付き合いはしていたが、特に親しいという訳ではなかった。

蒲田駅から歩いて20分の国道1号線沿いにある一見倉庫みたいな建物は、電話交換機製造会社で俺がアルバイトとして採用され3ヶ月あまり、単調な作業の繰り返しでいつ辞めようかと模索していたところだった。昨日、思い切って主任の橋本さんに話した。

「田舎のオヤジが倒れて……。急に帰ることになりました。長男なので後を継ぐことに」

いつものバイトを辞めるときの決まり文句を口にした。

「そうかあ、君の実家醤油作りと聞いていたが。残念だなあ。君は真面目にやってくれるから、いずれ俺の右腕になってもらおうと思っていたんだ」帰りしな橋本さんが残念そうに言う。

人のいい橋本さんを騙すようで心苦しいが、後にシコリを残さず辞める手段としてはこの方法が一番だ。

「給料の計算などあるから、二、三日してもう一度来社してくれないかなあ」

「はい、大学のこととかアパートとかの手続きもあるし四、五日はまだかかりますから」

そんなことで今日、給料を受け取りにきた帰り道だった。

もうここに来ることもないはずと、いつもの道を通らずちょっと遠回りして駅に向う長い坂を上りきって商店街に差し掛かったときだ。

赤い自転車の荷台と前の黒いカバンに郵便物を溢れんばかりにつんだ郵便配達員の男(制服と思うが囚人服にも見えた)がよたよたしながら俺に向かってくる。衝突しそうになる手前で横に避けた。

「おいおい気をつけてくれよう、自転車も車両に入るんだぞう」

「わりい、わりい。坂を上るのに勢いつけていたんだ」

ハアハア息を弾ませその男は帽子をとり、額の汗をズボンの後ろから取り出した汚らしいタオルで拭くと、見覚えのある顔が現れた。

「あれえ、山本じゃないか? 何故こんなところに……」

頬がこけて若干人相が変ってはいるが間違いない。

彼は怪訝そうに首をかしげ汗を拭く手を止め、

「ありゃりゃ、守じゃねえか!」

彼も驚きの声を上げる。

「こんな偶然ってのもあるんだ」

お互い声を上げ顔を見合わせた。

高校時代の彼は就職組で俺は進学組。福島県のW市から東京に来て3年。それまで彼のことなど思い出しもしないし、存在さえも記憶に入っていなかった。

「結婚したんだよ。俺」

いきなり結婚したなんていうか。普通は久ぶりとか元気とかじゃないかな。

「21で結婚。ずいぶん早いなあ」

俺も調子合わせたが。

「いろいろあってな・・子供も二人目が女房の腹に入ってる」

「お前、郵便局に勤めたんだ。しかも東京の蒲田で……」

「まあな、正社員じゃねえんだ、期間社員ってやつさ。バイトに毛が生えたようなものだよ」

「そうか民営化になったからな。郵便局も」

「そうなんだよ。旧公務員が楽なところ受け持って、俺達期間社員はクソみたいな地域やらされるよ。ブラックだー。郵便局なんて」吐き捨てるように言うと、お前はどうなんだと聞いてきたので、いま、会社辞めてきたところだ、と話すと、そうかとホッとした表情を見せた。同類哀れみってやつか。

道のど真ん中での話しは続かず、配達の途中だからと再会を約束して彼の名刺をもらい別れたが……もう会うつもりはなかったし彼も同じ気持ちだったろう。昔はあんなグチを言う奴じゃなかったが、人は変るものだ。旧友のそんなことを思いながら蒲田駅に向かって歩くとビルに囲まれた小さな公園があった。ベンチに座りショルダーバッグから缶コーヒーを取り出し一口飲むと、昨日からの出来事を思い出した。

「私、お見合いすることにしたんだ。親がうるさくいうもんだから、一度ぐらいしてみようかなって。相手はお医者さん。もしかしたら、玉の輿にのれるかも」

ドレッサーの前に座り髪をブラッシングしながら鏡の中のマリが、まだ布団に包まっている俺に話しかけてきた。

渋谷のハチ公前で落ち合いそのまま彼女のアパートに行き泊まり、朝起きてからの会話らしい言葉のやり取りがそれだった。

「俺達ってそんな軽い関係だったんだ」

とは言ったが、どこかでホッとするところもあったのは確かだ。

「まだ20だろ、そんなに焦ることないと思うよ。それに夢はどうなったの。女優になるってのは」

「馬鹿ねえ。女はいつでも結婚を夢みてるものなのよ。それにお見合いっていっても親の顔立てるだけだから」

ずいぶん醒めてる言い方に聞こえた。

「嫉妬してるの? そんなら守、結婚してくれる?」

「……」

「できないよねえ、男は自立しないと、経済的にね。苦労するのは女って決まってるから、でしょう?」

鏡の中の彼女はブラッシングの手を止め頬をほんのすこし前へつきだし、

ほらね。という顔をした。

「でも可能性はあるかも、守なら……それに賭けるっていう手もあるかもね。見合いがダメだったら頼むね。守」

「分かったよ。そんなときは俺も考えてみるよ。じゃあ、十時に人と合う約束あるから帰るよ」

こんなやり取りで時間をくったのが一つ。山手線で品川で東海道本線に乗り換えようとしたが人身事故とかで30分待たされ、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗ったのが9時半。これが二つ目。会社に着いたのが11時20分ごろだったか。10時の休憩時間に会うはずだった橋本さんに合って給料をもらったのは午前の作業が終了した12時半だった。これが三つ目。

なるほど、三つのことが重なって山本とばったりというわけか。彼にも事情があったのだろう、配達に出るのが遅れたと言っていたから。シンクロニシティ? そんなことを思っていたら、いきなりだ。

「オジサン」

目の前にセーラー服の女子高生が立っている。気づかなかった。俺のことか。まさか自分がオジサンと呼ばれるとは……。

「なんか用か? ママとはぐれて迷子にでもなったか」

茶化してやる。

「援交してくれない?」

よく見ると意外と可愛い顔してる、身体だけは一人前の女の子。

「まにあってる。あっちにいけ。ガキに興味ねえの」

犬でも追い払うように身振りまで添えてやった。

女子高生はクルッと向きを返ると、ジャングルジムの方に歩いて行き、そこにたむろしていた五人(あきらかに不良にみえるガキども)と時々俺を見て、何やら話してる。

その中のモヤシが人間になったような若者一人、薄ら笑いを口元に浮かべながら近づいてくると、

「オジサン。ダメだよ洋子怒らしちゃ。あいつの兄貴って怖い人なんだから。僕がなんとか機嫌直してやるから2万で。ちょうだい」

当然出すものと決めつけ手を伸ばしてくる。

「バーカ。いまねえオジサン哲学について考えてるの、人生の不思議についてね。まあ無理か。頭悪るそうだからな。うるさいから、あっち行って皆で家に帰ってションベンでもして寝ろ。クソガキが」

出した掌に丁度飲み終わった空き缶を、プレゼントしてやった。

「な、なんだー」缶を投げつけてきた。さっと右手でつかみ潰してポケットにいれる。ポイ捨て禁止。

「覚えてろ」捨て台詞を残し仲間のとこらに慌てて引き返す。

子供が子供を生む時代だ、あんなのがゴロゴロ増えたらニッポンはどうなるんだ。ガラにもないことが頭に浮かんでくる。

「オジサン、なめたことしてくれるジャン」

金属バットを右肩に担いだゴリラみたいなガキが、こっちに歩きながら吼える。

見た瞬間勝手に身体が反応する。立ち上がりゴリラに向って走り飛び上がって左足で変形回し蹴りを金属バットを担いでる右の二の腕に喰らわせた。軽く蹴ったつもりだったが肩にあった金属バットが乾いた音をたて、ゴリラの頭に当たりあっけなく気絶した。ベンチに引き返しショルダーバッグからアクエリアスのペットボトルを取りだしゴリラの顔にぶっかけた。

ブルブルと顔をふり目を開け、キョロキョロあたりを見回し俺と目が合うと、叫び声を上げヨタヨタ仲間をおいて逃げていく。残った四人も慌ててあと追っていった。

ジャングルジムの方から一人残ったあの女子高生が、悪びれる様子もなく、つかつか歩み寄ってくる。

「強いんだね、ボーとした間抜けなオジサンだと思ったのに」

「悪かったなボーとしたオジサンで」言うと手を掴み引き寄せ、膝の上に強烈に抑えスカートの上からお尻を二回引っぱたいてやった。もう一回やろうとしたが、高校生にしておくにはもったいないほど見事なお尻なので三回目は撫でてしまったが。

「変態野朗、放しやがれー」

悪態をつきバタバタ足を動かし抵抗していたが、そのうち動かなくなった。

「大人をからかったバツだ。もう二度とするな。わかったか」

離すと立ち上がり、乱せたスカートを直しながら睨め付けてくる。

手押し車に鍋とかヤカンを積んだホームレスが落ちていたゴリラの金属バットを拾って載せると、我関ぜずとなにごともなく去っていく。

「さて、っと。帰るか」立ち上がりまだ睨んでいる彼女に三分の一残っているペットボトルを、あげるよと言って渡し駅に向った。

弁当でも買ってかえるかと、道路沿いのコンビニにをめざすと、駐車場の車止めに座ったり、そのままアスファルトに座ったりで15.6人の若者達が、車三台か四台分のスペースを占領している。ジュースの缶やらカップラーメンの容器をそこらへんにそのまま置き、タバコの灰皿がわりにしていた。ゴミ箱が目の前にあるのに彼らの目には写らないようだ。

若者たちを避けながら駐車場を横切ろうとしたら、吸い殻をカップラーメンの容器に捨てた奴の前を通るときラーメンカップを蹴飛ばしてしまい、前にいたガキにかかってしまう。

「オッサン」

こんどはオッサンか。

「あれえ、こんなとこにカップラーメンあったんだー、気づかなかったなあ。ゴメンね」

相手は子供だからとやさしく言ったつもりだが、彼はそうとってくれないらしい。

「どうしてくれるんだよう。オッサン」

「どうすりゃいいんだろう?」

考えた。

「脱いで、脱いで。オッサンがコンビニの洗面所で洗ってやるから」

いいアイデアだと思った。

「ふざけてこと言ってんジャねえよ、これ特注のシャツなの、クリーニング代2万だしな」

またもや2万。彼らの相場らしい。

「どれどれ、特注のシャツって」

後ろにまわり襟のタッグを見たらユニクロのマーク。そのまま上に引っ張りボタンがちぎれるのもかまず脱がし、コンビニの洗面所にいきシンクで洗い、定員がハラハラして見ている前を通り、裸でいるガキに放り投げてやる。

「ボクちゃん。ボタンはねえ、おウチに帰ってママに付けてもらうんだよ」

またやさしく言って駅に向かう。

あまりにも早いことの成り行きにガキどもの空っぽの頭がついていけないらしく、口を空けていた数人が切れ掛かった電池を新品に換えてもらったようにやっと動き出し、喚きながら歓声を上げ、五、六人追ってくる。

ポケットからゴミ箱に捨てるはずだった空き缶を取り出し『バシッ』右足で蹴り上げた。空中高く上がった空き缶を見たガキどもは唖然として、それ以上追ってはこなかった。

弁当買うの忘れたな。

駅に着き切符を買うため財布を出そうとしたがジャケットの内ポケットには無い。しまった。あの洋子とかいう女子高生に摺られたか? やっと気が付づくうかつさ、ぼろぼろ財布だし中身は三千円ぐらいだか、学生証の再発行がめんどうだな。苦笑いして貰ったばかりの給料袋から千円札を引っ張りだした。後ろに並んでいるサラリーマンがイライラして、早くしてくれよと催促する。

今日は嫌な日だ。

翌日、大学に顔をだすと佐原にばったり出くわしてしまう。

「守、ボクシングする気になったか?」

たまたまグランドを通ったとき野球部の打った打球が俺の顔めがけて飛んできたのを、軽く首を振って交わしたのをボクシング部顧問の佐原に見られてしまったのだ。

「先生、前にもいったように偶然、たまたまですって」

「隠してもムダだ、守。俺の目はごまかされんぞ、後で部室に顔だせ。いいな」

言うと体育理論の講義でもあるのか、教室の方に急いでいく。

「おっはー」

「ようゲロック」

酒に弱いくせに合コンと訊くと顔をだし飲み過ぎて必ずといっていいほど吐く男。ゲロックこと斉藤六太が声をかけてきた。

「マーちゃん、うかない顔してどうしたんだよう」

「昨日、高校時代の旧友にばったり会っちまってさ、偶然にね。こんなことってあるんだな」

「そんなことで浮かない顔かー。俺もこの間の合コン、同じ日暮里のそれも近所の子・・確率的にはありえなくないけどさ。ああ、運命のマドンナはいまどこに」

「かってに夢見てろ」

ゲロックと別れ学生課に。学生証の再発行の手続きをすませ大隈重信公の銅像の前を通りボクシング部のある校舎をめざした。

佐原とのこと何とかしなくちゃ。会うたびに言われそうだ。

ボクシング部の扉を開けたら、ムッとする熱気と汗の匂いが背後に抜けていく。

 サンドバックと格闘してる奴、縄跳びをしてる奴とかがいっせいに動きを止め、感情のこもらない目で俺を見る。

中央のリングでスパーリングを指導していた佐原がリングを降り近づいてくる。

「守、よくきた。皆、こいつがさっき話した男だ。よろしくな」

まだ入るとも言っていないのに皆に紹介した。

「どう、三城とスパーリングしてみるか?」リングにいる奴を指差した。

こいつかゲロックがいってた三城ってのは、合コンで嫌がる女を無理やり強姦に近いやり方でモノにする奴とは。ニヤけた面してロープを両手で掴んで見ている。二年連続学生チャンピオンを鼻にかけやりたいほうだい、佐原はもちろん学長の山村教授も知っているはず。六大学ボクシング大会で二連勝のため目をつぶっているんだろう。

「先生、素人のしちゃっていいんですか。怪我でもしたんじゃ面倒ですから」

「こいつは素人じゃないと俺は睨んでいる。手を抜くなよ。三城」

シャツを脱ぎランニング一枚になる。パンテージを佐原に言われた一人が巻いてくれヘッドギアとグローブも付けてマウスピースを口に入れてくれた。靴がないので裸足になる。右の靴下の親指のところが穴あいてる。

軽く柔軟体操をしてロープを潜ると三城がバシッバシッとグローブを威嚇するように鳴らす。

すぐ打たれて倒れると佐原にばれてしまう。ちょっと遊ぼうか。なんて思って両手をダラっと下げていたら、いきなりワンツウがきた、身体が勝手に反応して避ける。まさか避けられるとは思っていなかった三城はむきになって迫ってくる。まずい展開。ロープに逃げグルグル回る。三城はマウスピースを吐き出し「待てーこの野郎」といいながら追っかけてくる。リングサイドで見物していた奴らがゲラゲラ笑い出す。もういいか。立ち止まり三城を睨みつける。ボデーにきた左のストレートを受け次にきた右のアッパーをよろけたふりして避けついでに奴の手首に右肘を一瞬の速さで当て、俺は腹をおさえてうずくまる。

佐原は首をかしげて何か考えているようだが、これで彼も俺のことは諦めるだろう。それにしても効いたなあいつのパンチ。さすが学生チャンピオンのことはある。が、彼の右手は当分ボクシングは無理だろう。いかにも痛そうに腹を押さえ、佐原に「じゃあ」と言って、シャツと靴を持ち部室をでた。

腹が減ってきたので学食でカレーライスを頼み食べているとゲロックが来た。

「ボクシング部でいま何かあったみたいだぞ。佐原のやつ三城を連れて焦って医務室にいったから。三城の奴、ついに罰でも当たったか。ところでマーちゃん、今日合コンあるけどたまには付き合えよ」

三城の右手はいまごろパンパンに腫れているだろう。チョッとやりすぎたかな。

「どうなのよ?」

「わりいな、俺、これからバイトあるんだ。今度また誘ってよ」

「いつもこれだ、お前くると俺、引き立つのになあ」

「言ってろ、この」

ゲロックを置いて学食をでた。真っ直ぐ帰ろ。分かるとは思わないが佐原に摑まったらヤバイ。

この西新宿にある分譲マンションはどういう訳か祖父の名義になっていた。前の住人アズサ姉はイギリスの大学に留学中だ。

五階建ての最上階。2LDKの学生が暮らすにはゆとりある広々とした部屋。学費とちょっとした金は出してもらっっていたが、ナマイキに食費ぐらいは自分でなんとかするよ、と言ってはみたが、なかなか。

シャワーより風呂にゆっくり浸かりたい気分だったのでバスタブにお湯を入れ、少しぬるめの浸につかった。

体がほぐれてきて改めてバカなことをしたと少し後悔した。

十五年前俺は、祖父にねだったものだ。父ちゃんはジッちゃんのことをゲンジュツ使いだ、と言っていた。父ちゃんが「教えてくれ」と言ったが、お前には無理だと断られたそうだ。

祖父は田舎の離れに源ジイと源ジイの孫アズサと住んでいた。源ジイは若いころから祖父の弟子だそうだが、アズサは僕より二つ上、ナマイキな女の子だがしょうがない僕より強いから。

「ジッちゃんいつ教えてくれるの。ボクもブルース・リーみたいに強くなりたいんだ」

「まだ早い。七つになったら教えなくもないが。修行は厳しいぞう。守は耐えられるかな?途中で投げ出すようじゃ、ジッちゃん教えてやらないよ」

「ボク、途中で逃げたりしないよ。絶対」

「よし、よし。じゃあ一つだけ教えてやろう。むかし宮本武蔵という剣の達人は箸で蝿を捕えたという。守はできるかな?」

ジッちゃんは囲炉裏にあった火箸を掴むと飛び回る蝿をじっと見て、シュッと振りかざすしたら、火箸の先に一匹蝿が刺さって足をバタバタ動かしている。

「守はこれが出来るか。できたら七つになったら教えてやろう」

「火箸ではできないけど、捕まえることはできるよ」

サッと一匹捕まえて、ほうら、ね。捕まえた蝿を手を開いてみせてやると、蝿はなにごともなかったように飛んでいった。

「みんなできると思っていたけどボクだけだよ。できるの。だってジッと見てると止まってるように見えるんだ」

「師匠。これは」

そばにいた源ジイがジッちゃんに言うと、

「うーむ。正に先祖の血だ」

七つになりジッちゃんと源ジイに教わることは凄まじいものだった。

 ジッちゃんは中学三年になった春、桜がさくころ亡くなった。ジッちゃんの最後の言葉が、

「大学に行くのだぞ。わかったか守。政治家を目指すのだ」

「でもジッちゃん。父ちゃんは腐っても警察官と政治家にはなるなって言ってるよ」

「源治あれを持ってきてくれ」

「これをよく見ろ松平容保公の直筆じゃ。後は源ジイと相談しろ、頼むぞ」

そうしてジッちゃんは死んだ。

風呂のなかでまどろんでいたようで、玄関のブザーで気が付いた。急いで風呂から上がり腰にバスタオルを巻きつけインターホンの受話器を取った。

「わたし」

受話器から聞き覚えのない声がする。

「誰?」

「当ててみて」

「遊んでる暇はないんだ、帰れ帰れ」

受話器を置きビールを取りに冷蔵庫に向うとまたブザーが鳴る。機械的は音が耳ざわりだ、好きなメロデーでも流れるやつに変えようといつも思うのだが、くそ、しつこいな。缶ビールのタップを引き喉に流し込みながらドアを開けた。

廊下の蛍光灯の明かりが浮き出した女性が公園での女子高生とすぐ分かったわけではなかった。ブルージーンズにデニムのシャツ、髪をポニーテールにして印象が違っていたからだ。セーラー服のときのふてぶてしい態度よりむしろ清純な感じがする。仕返しにでも来たかと廊下をみたがそれしい姿はない。

断りもなく脇を素早く抜けると、ソファーに座り「案外いいとこに住んでるジャン、エレベーターがないのがチョッとおちるかな。それにしても少女趣味的な部屋。綺麗なお姉さまでも居るみたい」

悪びれた様子もなく言ってのける。

「アズサ姉の……、何しにきたんだ。ズカズカ勝手に入りこんで」

マリにも言われたっけ。

「落ちてたのー」といって、肩に賭けたポシェットから見覚えのある財布を取り出した。

そうか。派手な動きをしたから落としたのかもしれない、この子が摺ったと思い込んでいたが……違ったか。元はといえばこの子のせいだが。

「そっかあ、悪かったな。はい、わざわざ届けてくれてありがとう。じゃあ、オジサン風呂に入っていたところだから、ね」

玄関ドアのノブを掴み促した。

彼女はソファーから立ち上がると「痩せてひ弱なお兄さんだと見てたけど・・」

といいながら、品定めをするように首を左右に傾け腕を組み「いいかも」納得するように小さく頷いた。

「私、狙われているんだ、助けてよ」

いくぶん媚を含んだ声。

「なんで俺が君を助けなくちゃいけないんだ」

「財布、わざわざ届けにきてやったし、お尻も触られたし、私達まんざら知らない仲でもないでしょ」

「そんなこともあったかな……」

とぼけてみた。

「ここで大声だしちゃうから。レイプされたって。警察は私みたいな可憐な乙女と、どっちを信用するかしら」

女ってなんでこうしたたかなんだろうと、妙に感心させられた。

「ねえねえ聞いてよう」

近づいてなれなれしく腕をとりソファーに引っ張っていく。

「学校帰り新宿の紀伊国屋に寄ったの。村山春樹の新刊でたから買うつもりでレジに持っていこうとしたら、『万引きはいけないヨ、おじさんが買ってやる』って、声かけてきたのよ。あっラッキーってその時は思ったの、普通のサラリーマンだと思ったから。レジでお金はらってもらいお礼をいって別れようとしたら、お茶しようっていうのよ」

そこまで話すと、喉渇いた、と勝手に冷蔵庫にいき、ビールばっかり、なんて言って牛乳パックを台所にあるコップに注ぎ、「飲む」なんて仕草を俺にむける。首を振り「ビール」と声を出さず口でいうと、OKと右手の人差し指と親指でつくる。だんだんこの子の術中にはまり込んでいくような、それでいて不快に感じないのが不思議だ。

ビールを渡され、「どうも」なんて言ってしまう。

「それでね、本買ってもらったしお茶ぐらいいいかなって近くのサテン入ったわけよ」

コップの牛乳を一気にのむ。真っ白い喉が妙に艶かしく上下する。

俺もビールの栓を抜きコップに注ぎ一気に飲む。

「ウエイトさんが去ったら、いきなりよー。援交しよう、って言うんだから。私びっくりしちゃって」

「だって真面目そうなオジサンに見えたから」

「よくいうよ。俺はそう見えなかったんだ」

「いつもやってる分けじゃないわよ、あの時初めてだったんだから」

「まあいいよ。それで」

憤慨している彼女に話の続きを促した。

「彼の携帯がなって……顔色変わったわ。背広の内ポケットから手帳をだして、これ預かってくれっていうの、私戸惑っちゃって」

ポシェットからこんどは黒い手帳を取り出した。

サングラスした二人組みが入って来て、そのうちの一人が私をチラッと一瞥したけど彼の腕を有無を言わさずつかんで出口に連れていき、待ってた車に乗せるいってしまったわ」

「私ヤバイと思ってすぐサテンでたの。その次の日、校門のまえに変な男が見張ってるのよ。制服着てたから学校分かったみたいなんだ」

「そういうのを、自業自得っていうの。いつも大人を騙してるからこうなるの」

「違うよ。あいつら金がないっていうからチョッと協力したまでよ。さっきも言ったでしょ、いつもなんてしていないんだから」

彼女は初めて弱気な気持ちを見せ、いまにも涙を滲ませるようた。

「分かったよ。それで俺はどうすりゃいいの?その前に手帳見せてよ」

パッと顔を輝かせ手帳を手渡してくる。ペラペラ捲ってみたが数字と記号だらけでさっぱり分からない。

「その手帳返してほしいの、今日金曜日だから学校土曜日曜休みでしょ、だから月曜日に、校門にいる男の人に。私、怖くて」

「ハイハイ、月曜日ね。家はどこなの。タクシー呼んでやるから」その時はやっかいなことに巻き込まれるとは思ってもいなかった。

「さっきの子たち、下で待ってるから」

「大丈夫なのかあ、あいつらで。頼りにならないようだけど」

「あれで案外強いんだけどなあ。私、橘洋子、都立高校の三年生、お兄様は?」

お兄様に昇格か。

「表札見ただろうし、学生証もみただろう」

「本人の口から直接訊きたいの」

「最首 守」ぶっきらぼうにいう。

「平凡でいい名前だね。マモル」

なんだよ、こんどは呼び捨てかよ、一緒に廊下に出て手すりごしに下を見ると、この間のガキどもがいた。ゴリラがぺこぺこ頭を下げている。

帰り際、「私のお尻、さわり心地よかったでしょ」

口の減らない女子高生だ。

「前にも言ったろガキに興味ないの」言ってみた。

(本当か?)

土曜日、合コンの帰りだというゲロックが部屋に訪ねれきた。

「お前何時だと思ってんだー。夜中の一時だぞ、もう」

「泊めてくれ、もうダメ。お前んとこ一番近かったから」

言ってソファーにバッタリ、寝てしまう。しょうがねえ、モーフを掛けてやる。

翌朝例の手帳をゲロックに見せた。

「お前、軍事研究会の部長だろ、これなんだか解るか?」

「なんだこれは暗号みたいだな、2、5、12=1写あり50。ああ簡単な暗号だよ。小学生レベルのやつさ、多分何かの本だろう。最初のやつがページ数で次が行数だろう。次のが上から何番目の文字を表すやつ。元が解ればすぐ解けるやつだよ。やっかいなのは何の本かということだけ。ヒントはないのか?」

確かあいつ、村上春樹のコーナーで声掛けられたといってたな。

「もしかしたら村上春樹かもしれない」

「最近のやつかな。売れたとなると、ノルウェイの森かも。ちょっとまてよ」

ショルダーバッグからタブレットを取り出し、操作しだした。便利な世の中になったものだ。が、その見返りに何かを失っていくんだなあ、人間は。そんな気がした。

「ほら、あった。えーと、ま・き・ざ・き=1か。次は、た・か・は・し=2。なんだか人の名前みたいだな」

「この手帳の持ち主は」と、ページをめくる。ピンキー企画(株)広報部長 西山悟か。

「ピンキー企画か、グーグルで検索と。おおー、でたぁ。何々、芸能プロダクションか。今年5月初め、少女たちに売春させた容疑で家宅捜査。行方不明の少女もいる模様で……。 なんだこれー」

                第一部 完

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